■ 「ご登録の印鑑と相違ありません」——僕らは毎回、小さな国家に認証されている
区役所の窓口で、朱肉をつけて、紙にぽんと丸い赤を押す。すると係の人が奥へ引っ込み、しばらくして戻ってきて言う。「はい、相違ありません」。この瞬間、僕はいつも不思議な気持ちになる。たった今、直径一センチの赤い円が、「これはまぎれもなく本人だ」と、国家に太鼓判を押されたのだ。
考えてみれば奇妙な話だ。僕という人間は、目の前に、生身で、汗までかいて立っている。それなのに「あなたが本人である」ことは、僕自身ではなく、机の上に転がった小さな印鑑が保証している。顔でも、声でも、記憶でもなく、木や水牛の角を彫った棒っきれが。ハンコとは、いってみれば「机の上の、いちばん小さな国家」なのだ。押すたびに僕らは、ごく小さな行政手続きを、自分の手で執り行っている。
そしてこの奇妙な儀式を、僕らはもう、とても長いあいだ続けてきた。想像よりずっと長く——。
■ 5000年前、粘土の上を転がった最初の”署名”
話は紀元前3500年ごろ、メソポタミアまでさかのぼる。文字が生まれたばかりのこの土地で、人々は円筒印章(えんとういんしょう)というものを使っていた。小指ほどの石の円柱に、神様や動物の絵を彫り、それを湿った粘土の上でコロコロと転がす。すると、粘土の上に絵が連続して浮かび上がる。これが「この壺は私のものだ」「この取引に私は同意した」という、人類でいちばん古い”署名”のひとつだった。
面白いのは、この発明が何を解決したかだ。当時、遠くの都市へ荷物を送るとき、送り主はいつも困っていた。「途中で誰かが中身をすり替えていないか」「本当に約束の相手が受け取ったのか」。顔の見えない相手を、どうやって信じればいいのか。円筒印章は、その問いへの答えだった。粘土に押された印は、真似しづらく、持ち主にしか作れない。つまりハンコとは最初から、「信頼を、目に見えて、持ち運べる形にする」ための技術だったのだ。
この発明は、その後も人類のそばを離れなかった。古代エジプトでは、フンコロガシをかたどった「スカラベ印章」に名前を刻み、ローマの人々は指輪に紋章を彫って、蝋(ろう)に押しつけた——手紙の封に垂らした蝋へ指輪をぐっと押し込む、あの映画で見る所作は、まさに「本人の証明」だったのだ。そして日本では、明治の世になって国家が「印鑑登録」という仕組みを整えた。あなたの印影を役所の台帳にひとつ登録しておき、大事な契約のときはそれと照らし合わせる。つまり近代国家は、5000年前の粘土の知恵を、行政の背骨として採用したわけである。政治とは、突き詰めれば「顔の見えない大勢の人間を、どう束ね、どう信じ合わせるか」という営みだ。ハンコは、その最小の道具として、ずっと僕らの手のひらの中にあった。
僕らがいま窓口で押している赤い円は、いわば5000年前の粘土の続きである。姿かたちは変わっても、やっていることは同じ。「顔の見えない社会で、どうやってお互いを信じるか」——ハンコは、その巨大な問いに人類が出した、いちばん身近な答えなのだ。
■ AIは「押す」を消し、「信じる」だけを残す
では、その5000年の儀式は、これからどうなるのだろう。
答えの一端は、もう僕らのスマホの中にある。ネットで確定申告をするとき、銀行口座を開くとき、僕らはもう朱肉を使わない。かわりに「電子署名」というものが静かに働いている。仕組みは少し不思議だが、たとえるなら、こういうことだ。あなたの手元に「あなたにしか作れないが、誰でも本物か確かめられる封蝋(ふうろう)」があると想像してほしい。手紙にその封蝋を垂らせば、受け取った人は中身を開けなくても「確かにあなたが封をした」とわかる。しかも偽物は決して作れない。数字と計算だけでできた、割れない封蝋。これが電子署名の正体だ。
AIは、この流れをさらに先へ押し進める。これから期待されているのは、「本人確認」という作業そのものが、僕らの視界から静かに消えていく未来だ。窓口で番号札を取り、引き出しの奥から印鑑を探し、三枚つづりの書類に何度も同じ名前と住所を書く——そういう手間を、AIが背後でまるごと肩代わりする。顔でも、声でも、過去のふるまいでも、いくつもの手がかりを瞬時に照らし合わせ、「はい、確かにあなたです」と、押印より速く、静かに保証してくれる。
たとえば、引っ越しの手続きを思い浮かべてほしい。役所、電気、ガス、水道、銀行——同じ「私は私です」を、僕らは今、何度も何度も証明し直している。あの徒労のような繰り返しを、AIが一度の確認で束ねてくれる日は、そう遠くない。ハンコが果たしてきた役目は、消えるのではない。押す動作だけが消えて、「信じる」という本質だけが残るのだ。
■ 影を見つめて、それでも僕は未来に賭ける
もちろん、影はある。証明が速く、なめらかになるほど、「なりすまし」もまた巧妙になる。他人になりすます技術と、それを見破る技術は、いたちごっこのように競い合うだろう。そして、あらゆる手がかりで個人が瞬時に照合される世界は、裏を返せば「証明から逃げられない私」を生むかもしれない。便利さと引きかえに、僕らは少しだけ、匿名という毛布を手放すことになるのかもしれない。
けれど、思い出してほしい。ハンコが5000年前に生まれたのは、人を縛るためではなかった。顔の見えない相手を「それでも信じたい」という、素朴で温かい願いのためだった。証明とは本来、疑うための道具ではなく、信じるための道具なのだ。
未来のテクノロジーは、きっとその原点を裏切らない。むしろ、朱肉の乾く時間も、窓口の長い列も、机に積まれた書類の山も——「信じる」というたった一点のために僕らが払ってきた膨大な手間を、丸ごと肩代わりしてくれる。そうして浮いた時間で、僕らはもっと本質的なこと、たとえば目の前の誰かを、手続きぬきで、まっすぐ信じることに使えるようになる。
机の上の小さな国家は、いつか静かに役目を終えるだろう。でもそのとき失われるのは「押す」という動作だけだ。5000年ものあいだ、人類が粘土に、紙に、そして光の中に託し続けてきた「あなたを信じる」という願いは、かたちを変えて、これからも僕らのそばに在り続ける。次に朱肉の匂いを嗅いだら、ほんの少しだけ愛おしく感じてほしい。それは、人類がいちばん長く押し続けてきた、”信頼”という名のボタンなのだから。
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