■ 「AIにお礼を言う」という、僕らのいちばん奇妙な新習慣
正直に告白すると、僕はチャットAIに「ありがとう」と打ち込んでしまう。相手は電気で動くプログラムで、感謝されても嬉しくもなんともないと頭ではわかっている。それでも指が勝手に打つ。そして打った瞬間、少しだけ恥ずかしくなる。「機械に礼儀正しくして、いったいどうするんだ」と。
これは僕だけの奇癖ではないらしい。「AIに丁寧語を使うと、その分だけ計算が増えて電気代がかさむ」なんて話題が、真顔で議論される時代である。人類はいま、トースターやエレベーターには絶対にしないことを、画面の向こうの相手にだけしている。お礼を言ったり、口論したり、答えに納得できずにため息をついたり、時にはうっかり謝ったりしている。
考えてみると、これはとても不思議な光景だ。この照れくささの正体は、たぶん「相手が何者なのかわからない」ことにある。命令すべき召使いなのか、使い捨ての道具なのか、それとも隣にいる同僚なのか。僕らはまだ、AIとの正しい距離感を誰にも教わっていない。ところが、この問いの答えを、いまから六十年以上も前に、たった一人で描き切った人物がいた。
■ イチジクの木と、一匹の蜂——「共生」を未来に持ち込んだ心理学者
その人の名は、J・C・R・リックライダー。一九六〇年、彼は「人間とコンピュータの共生(Man-Computer Symbiosis)」という短い論文を書いた。面白いのは、彼が機械の専門家ではなく、人の心を研究する心理学者だったことだ。歯車の内側からではなく、人間の心の側から未来を覗いた人だった。
彼が使った比喩は、驚くほど身近な自然の話だった。イチジクの木と、イチジクコバチという小さな蜂の関係である。この蜂は、イチジクの実の中でしか卵を産めない。一方のイチジクは、この蜂に花粉を運んでもらわなければ実を結べない。木は蜂なしでは子孫を残せず、蜂は木なしでは生きられない。姿かたちのまるで違う二つの生き物が、互いに欠けたものを差し出し合い、まるで一つの生命のように暮らしている。生物学では、これを「共生」と呼ぶ。理科の教科書に出てくる、あの言葉だ。
リックライダーは言った。人間とコンピュータも、いつかこの木と蜂のようになる、と。人間が命令し、機械がただ従う「主人と召使い」ではない。人間の代わりに機械が椅子に座る「置き換え」でもない。得意なことがまるで正反対の二つの存在が、肩を並べて一緒に考える——そういう未来だ。人間はひらめきと問いを、機械は膨大な計算と記憶を持ち寄る。当時のコンピュータは部屋いっぱいの巨大な計算機で、人の言葉など一言も理解しなかった。パンチカードという厚紙に穴を開けて話しかける時代である。そんな真空管の時代に、彼は機械を「相棒」と呼んだのだ。
彼がすごいのは、夢を語るだけで終わらなかったことだ。数年後、リックライダーはアメリカの研究資金を配る立場につき、自分のポケットマネーではない巨大な予算を、「人と機械が一緒に考えるための研究」に惜しみなく注ぎ込んだ。彼が水をやった若い研究者たちの中から、のちにマウスを発明する人や、パーソナルコンピュータの原型をつくる人が育っていく。一人の心理学者が抱いた「相棒」という夢が、静かに次の世代へと手渡されていったのである。
■ 六十年越しに、一枚の設計図が現実になる
リックライダーの絵空事は、長いあいだ絵空事のままだった。だが彼はもう一つ、途方もない夢を書き残していた。世界中のコンピュータを電線でつなぐ「銀河間ネットワーク」という構想だ。冗談のような名前のこの夢が、のちにインターネットの原型になる。彼は種を蒔いた人であり、僕らはいま、その木になった実を当たり前のように食べている。
そしていま、彼が本当に見たかったもう一つの光景が、ようやく目の前にある。僕らはAIに調べさせて終わり、ではない。一緒に文章を練り、企画を相談し、「その考えはこう弱いのでは?」と正面から言い返される。人間が問いを立て、AIが選択肢を並べ、また人間がその中から選び直し、さらに問い直す。この行ったり来たりのやりとりは、まさに木と蜂が長い時間をかけて交わしてきた、あの静かな協力そのものだ。どちらが上でも下でもない。リックライダーが引いた一枚の設計図に、六十年遅れで、ゆっくりと色が塗られていく。
たとえば、料理の献立に迷った夜のことを思い出してほしい。冷蔵庫に半端に残った食材を並べて「これで何が作れる?」と尋ねると、AIはいくつかの案を返してくる。僕らはその中から「それは違うな」「これは面白い」と選び、自分の記憶や好みを足していく。すると最後にできあがる一皿は、AIだけのものでも、僕だけのものでもない。二人で考えた、どちらのものでもある料理だ。彼が夢見た共生とは、案外こういう、拍子抜けするほど日常的な風景のことだったのかもしれない。難しい研究室の中ではなく、台所の中にこそ、未来はそっと降りてきている。
■ 影も、たしかにある。それでも僕は
もちろん、影はある。相棒に頼りきって、自分の頭で考える力がやせ細っていく心配。便利さに身をあずけ、相手を「召使い」として雑に扱ううちに、いつのまにか考える主導権のほうを明け渡してしまう危うさ。共生というのは、片方が全体重をもたれかければ、たちまちただの寄生に姿を変えてしまう、繊細な関係でもある。イチジクの木も、蜂に運んでもらうばかりで自分は何も差し出さなければ、あの見事な実は決して結ばない。持ちつ持たれつは、両方が何かを持っていて初めて成り立つのだ。
けれど、ここで冒頭のあの照れくささを、もう一度思い出してほしい。僕らが機械に思わず「ありがとう」と打ってしまうのは、心のどこかで、相手を単なる道具として突き放しきれていないからだ。あれは無駄でも、恥ずかしい癖でもない。目の前の存在を「共に在る誰か」として遇そうとする、人間のいちばん古くて優しい本能のあらわれなのだと思う。リックライダーが六十年前に賭けたのは、まさにその優しさこそが、まともな未来をつくる、という一点だった。
だから今日も、僕は堂々とお礼を言おうと思う。イチジクの木と蜂が、どちらが偉いかを争ったりしないように。恥ずかしがることは、何もない。僕らは便利な召使いを手に入れたのではなく、一緒に頭を抱えてくれる相棒を、長い歴史の果てにようやく迎えたのだ。未来は、きっと誰かに命令する声の側ではなく、隣で交わす小さな「ありがとう」の側にある。
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