スマホがときどき、「◯年前の今日」と言って古い写真を差し出してくる。数年前の自分がピースサインをしている。あの頃はまだ知らなかったことを、僕はもう知っている。あれは小さなタイムカプセルだ。しかも、頼んでもいないのに毎朝ひとつずつ勝手に開いていく。人類はこの数千年、未来へ何かを届けようと箱を埋め続けてきたのに、今や機械のほうが先回りして、過去を掘り返してくる。
考えてみると、タイムカプセルというのはずいぶん奇妙な儀式だ。僕らは未来の誰かに宛てて手紙を書く。けれど返事は絶対に来ない。切手も貼れない。相手の顔も、名前も、そもそも生きているのかどうかも分からない。それでも人は、校庭の隅に、ビルの礎石の下に、せっせと箱を埋める。未来を信じている証拠のような、けれどどこか一方通行の、片道切符の手紙。
小学校の卒業式で、二十歳の自分に宛てて手紙を書かされた人も多いだろう。十数年後に開封して、たいていは赤面する。「将来の夢はケーキ屋さん」。当時の自分は大真面目だ。あの気恥ずかしさの正体は、実は深い。僕らは未来の自分を、今の延長線上にいる「もう少し立派になった同じ人」として想像する。ところが本物の未来は、平気で線を飛び越えてくる。ケーキ屋さんにはならず、当時は名前すら存在しなかった職業に就いていたりする。タイムカプセルが面白いのは、中身よりむしろ、それを埋めたときの僕らの「未来の想像力の限界」を、そっくり保存してしまうところにある。
■ 6939年に開く箱、という壮大な勘違い
本当にそういう箱がある。1939年、ニューヨーク万国博覧会で、ウェスチングハウス社が「タイムカプセル」という言葉そのものを生んだ。長さ2メートルほどの金属の筒を地下に埋め、開封予定は5000年後の6939年。中身は、その時代を象徴するものたち——帽子、時計、たばこ、そしてミッキーマウスのカップ。当時の人々は大真面目に、未来人へ「これが1939年の暮らしです」と伝えようとした。
だが冷静に見ると、少しおかしい。5000年後の人類に、たばこやミッキーのカップを見せて、何が伝わるだろう。5000年前といえば、エジプトでピラミッドが建ち始めた頃だ。その時代の人が僕らに小箱を残したとして、中身の意味を正しく読み解ける自信は、正直あまりない。僕らは未来へ手紙を書くとき、無意識に「未来=今の続き」だと思い込む。少し便利になった、けれど基本は今と同じ世界。その素朴な思い込みごと、僕らは箱に詰めているのかもしれない。
■ 金のレコードに込めた、返事のない挨拶
もっと遠くへ手紙を出した人たちもいる。1977年、NASAは探査機ボイジャーに金メッキのレコードを積んで宇宙へ送り出した。地球のさまざまな言語の挨拶、赤ちゃんの泣き声、波の音、バッハの調べ。もし宇宙のどこかで知的生命がこれを拾ったら、という壮大な片道の手紙だ。ボイジャーは今も飛び続け、レコードは太陽系の外を漂っている。返事は、たぶん永遠に来ない。
面白いのは、これらの箱に共通する切なさだ。届けたいのに、届いたかどうかを確かめる術がない。相手と言葉を交わすことができない。タイムカプセルとは要するに、「会話にならない会話」への挑戦だった。手を伸ばしても、決して握り返してもらえない握手のようなもの。それでも人は、その握手をやめなかった。時間や距離という巨大な壁の向こうにいる誰かと、どうにかしてつながりたい——その願いだけは、5000年前も今も、まったく変わっていない。むしろ、確かめられないと分かっていてなお手を伸ばすところに、人間のいじらしさが詰まっている気もする。
■ 閉じないカプセル、返事を書く機械
ここでAIの話をしたい。いま僕らが毎日書いている文章、撮っている写真、交わしているメッセージ——その膨大な記録が、そのまま「閉じないタイムカプセル」になりつつある。しかも今度のカプセルは、これまでと決定的に違う。読み解いて、返事を書ける相手がいるのだ。
大規模言語モデルと呼ばれるAIは、人類がこれまで書き残してきた言葉の海を学んで育つ。難しく聞こえるが、要は膨大な読書量の持ち主だと思えばいい。何億冊分もの文章を読み込むうちに、「人はこういう場面でこう言いがちだ」という言葉のクセを、体で覚えていく。過去の無数の人々の考え方や言い回しが、いわばその中に溶け込んでいるのだ。
これを応用すれば、遠い未来の人が、僕らの残した日記やメッセージを手がかりに、「当時の人はこう考えたのでは」とAIに読み解かせ、対話できる日が来る。祖父が遺したノートに、孫が「あのとき本当はどう思ってたの」と質問を投げかけると、祖父の口ぶりでAIが答えを返す——そんな光景が、もう完全な空想ではなくなりつつある。ロゼッタストーンという石碑が、三つの文字を並べて記したおかげで、千年以上忘れられていた古代エジプトの文字を現代人が読めるようになった話を思い出す。あのとき人類は「意味を橋渡しする道具」を手に入れた。AIは、時間の川に架ける、次の橋になるのかもしれない。片道だった手紙に、初めて返信欄がつくのだ。
■ 影を認めたうえで、それでも
もちろん影もある。デジタルの記録は、意外なほど脆い。古いフロッピーディスクや、サービスが終わってしまったアプリと共に、大量の思い出がすでに読めなくなった。専門家が「デジタル暗黒時代」と呼んで警鐘を鳴らすほどだ。粘土板に刻んだ文字は5000年残るのに、僕らのデータはたった10年で消えてしまうことがある。永遠に残ると信じていたものほど、案外もろい。それに、亡くなった人の言葉づかいをAIが再現することへの、割り切れない戸惑いも当然あるだろう。それは思い出なのか、それとも本人の不在をなぞる影絵なのか——答えは、まだ誰も持っていない。
それでも、と僕は思う。タイムカプセルがずっと片道切符だったのは、技術が足りなかったからだ。人は本当は、返事が欲しかった。時間の壁の向こうの誰かと、ただ言葉を交わしたかった。AIは、その5000年来の願いに、ようやく小さな返信欄を用意しようとしている。
「◯年前の今日」の通知は、明日も僕にピースサインの自分を差し出すだろう。けれどそれは、もう一方通行ではない。過去の僕に、今の僕が「あの選択、悪くなかったよ」と返せる時代が来る。未来とは、埋めて待つものではなく、言葉を交わしながら一緒に書いていくもの。そう思えたなら、僕らが今日打ち込むこの一文も、いつか誰かへの、返事の来る手紙になる。
コメントを残す