朝の駅で、僕はいつも小さな儀式に参加している。エスカレーターに乗ると、何も言われていないのに、すっと右へ、あるいは左へ寄る。急ぐ人のために、片側を空けておくためだ。ふしぎなのは、この動作を誰かに教わった記憶が、僕にはまったくないことだ。校則にも、法律にも、駅の張り紙にも、本当は「片側を空けなさい」とは書かれていない。それどころか、多くの鉄道会社は「危ないので歩かないでください」とアナウンスまでしている。それでも僕らは、毎朝きちんと片側を空ける。誰も命じていない号令に、律儀に整列して。
■ 「みんなの親切」は、いつのまにか法律より強くなる
考えてみれば、これはなかなか奇妙な光景だ。国が決めたわけでも、多数決で選んだわけでもないルールを、何百万人もの人間が、疑いもせず、しかも「これがマナーだ」と信じて守っている。破ると、後ろの人に舌打ちされそうな気さえする。誰も書いていない規則が、書かれた規則より重い——僕らの社会には、こういう”透明なルール”が驚くほどたくさん流れている。芝生の広場に、いつのまにか人が通った跡の細い近道ができるのに似ている。誰も設計していないのに、みんなが同じところを踏むから、道になる。透明なルールとは、心の中にできた、その近道のことだ。
こうした透明なルールは、駅の外にもあふれている。満員電車で、なぜか全員がドアのほうを向いて背中を並べること。エレベーターの中で、申し合わせたように無言になって階数表示を見上げること。誰も「そうしろ」とは言っていないのに、僕らは驚くほど従順に、見えない台本どおりに動いている。人間は、思っているよりずっと「まわりに合わせる生き物」なのだ。
おもしろいのは、その近道が、場所によって左右あべこべになることだ。同じ日本でも、東京では左に立って右を空けるのに、大阪では右に立って左を空ける。海を越えたロンドンや香港でも、流儀はまちまちだ。もし「片側を空ける」が宇宙の真理なら、どの街でも同じ側になるはずだ。でも実際には、たまたま誰かが始めた癖が、その土地でいつのまにか”正解”として固まっただけ。僕らが絶対だと思っている常識の多くは、じつはこの程度の偶然でできている。誰かが決めた大ルールではなく、無数の人の「まあ、みんながそうしてるし」という小さな遠慮が、雪だるまのように積もって、いつしか掟の顔をするようになる。
■ ロンドンの駅がこっそり試した、たったひとつの実験
エスカレーターそのものは、意外と新しい発明だ。世に出たのは十九世紀の終わり、百三十年ほど前のこと。「エスカレーター」という言葉さえ、もとは一企業がつけた商品名だったという。片側を空ける習慣が広まったのは二十世紀の半ば、ロンドンの地下鉄あたりだと言われている。少しでも人の流れをよくしようと「歩く人は右へ」と呼びかけたのが始まりらしい。遠い昔の小さな工夫が、国境も世代も越えて、いつのまにか”世界の常識”になったわけだ。
ところが、ここに小さな爆弾が仕込まれている。数年前、ロンドンの地下鉄が、混雑のひどいある駅で、こっそり実験をした。片側を空けるのをやめて、「二列とも立ち止まって乗ってください」とお願いしてみたのだ。歩きたい人には少し不評だった。でも結果は驚くべきものだった。空けていたときより、はこべる人の数がむしろ増えたのである。
理由は、拍子抜けするほど単純だ。片側を空けると、歩く人は速いけれど、その列はスカスカになる。立つ側だけに人が集中して、階段の下には行列ができる。両側に立てば、一段も無駄にならない。エスカレーターという同じ機械が、みんなが少し「歩く自由」を手放しただけで、より多くの人を運べるようになる。僕らが「効率的で親切だ」と信じてきた作法は、駅全体で見ると、じつはいちばん混む選び方だった。良かれと思って空けていた片側が、みんなを待たせていた——この”ハッ”とする逆説に、僕はしばらく言葉を失った。
■ AIは、僕らの「なんとなく」を、そっと見えるようにする
ここでAIの話をしよう。近ごろのAIが得意なのは、まさにこういう「みんながなんとなく正しいと思っていること」を、数字にして机の上に並べてみせることだ。人の流れ、電気の使い方、荷物の運び方——僕らが長年、勘と善意で回してきた仕組みを、AIは「本当にそれが最善ですか?」と静かに問い直してくる。ときにその答えは、エスカレーターの実験のように、僕らの常識をあっさりひっくり返す。人間の直感は、目の前の一人には優しくできても、駅全体の何万人を同時に思い浮かべるのは苦手だ。その苦手を、そっと補ってくれるのがこの技術なのだ。歴史をたどれば、望遠鏡が「見えているつもりの空」を描き直し、顕微鏡が「何もないと思っていた一滴の水」に無数の命を見つけてきた。AIもまた、僕らの日常に向けた、新しいレンズの一つなのだと思う。
もちろん、影もある。「あなたのその習慣は非効率です」とAIに指摘され続ける世界は、想像すると少し息苦しい。すべてを最適化され、無駄も遠回りも許されない社会は、たぶん、あまり住み心地がよくない。人間の暮らしには、効率では測れない”ゆとり”という余白が要る。急ぐ朝もあれば、あえて階段を歩いて汗をかきたい朝もある。
でも、僕はこの技術を、そんなに冷たいものだとは思っていない。AIが本当にくれるのは「正解」ではなく、「疑っていい自由」なのだと思う。片側を空けるのも、両側に立つのも、本当はどちらでもいい。大事なのは、誰かの昔のつぶやきを永遠の掟だと思い込んで、そこで考えるのをやめてしまわないことだ。AIという新しい鏡は、僕らが無意識に守ってきた透明なルールを、そっと目に見えるところへ運んでくれる。そして「これは本当に、いまの僕らに必要?」と、やさしく肩を叩いてくれる。
明日の朝も、僕はきっとエスカレーターで片側に寄るだろう。長年の癖は、そう簡単には抜けない。でも、その一歩には、昨日までなかった小さな自由が宿っている。守ってもいいし、やめてもいい。ルールを選び直せる——それは、誰かに決められた社会から、自分たちで問い直せる社会へと、僕らがそっと乗り換えていくということだ。透明なルールが見えるようになった世界は、窮屈になるどころか、ずっと風通しがいい。見えなかった掟が見えるということは、僕らがそれと仲良くするか、やさしく手放すかを、自分で選べるようになるということだ。未来は、そうやって少しずつ、やわらかくなっていく。
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