■ 押しても、たぶん、何も起きていない
エレベーターに乗り込んで、行き先の階を押したあと、僕らはほとんど反射的にもうひとつのボタンを連打する。「閉」——三角形が内側を向いた、あの記号だ。早く閉まれ、と念を送りながら親指に力を込める。ドアがすっと閉まると、なんとなく「押したから閉まった」気がして、少しだけ満足する。
でも、白状しよう。あのボタン、多くの場合、押しても何も起きていない。
これは陰謀論でも都市伝説でもない。アメリカでは1990年に成立した「障害を持つアメリカ人法(ADA)」以降、車いすや杖の人が安全に乗り込めるよう、ドアは一定時間かならず開いているよう設計が義務づけられた。結果として、多くのエレベーターで「閉」ボタンは配線こそ残っているものの、通常運転では機能を殺されている。押しても、ドアは自分のタイマーで、淡々と閉まっているだけなのだ。ニューヨーク・タイムズが以前、この「動かないボタン」を特集して、ちょっとした騒ぎになったこともある。多くの人が、うすうす感じていた違和感を、そこで初めて言葉にされたのだと思う。
面白いのは、それでも僕らは押すのをやめないことだ。効かないと知らされてもなお、指はボタンへ伸びる。まるで、押すという行為そのものが目的になってしまったかのように。僕らは何十年も、効いていないスイッチに念を込めてきた。
■ 「効いている気がする」を、脳は本気で信じてしまう
なぜ、効かないボタンがそのまま残っているのか。撤去する手間の問題もあるが、もっと面白い理由がある。「押せる」という感覚そのものが、人を落ち着かせるからだ。
心理学者のエレン・ランガーは1970年代に、有名な実験をした。宝くじを配るとき、番号を「自分で選んだ」人と、「機械的に渡された」人に分ける。当たる確率はもちろんまったく同じだ。ところがいざ「その券、誰かに譲ってくれない?」と頼むと、自分で選んだ人ほど手放したがらず、しかも高い値段をつけた。何も変わっていないのに、「自分が関与した」というだけで、当たる気がしてくる。ランガーはこれを「コントロールの錯覚(illusion of control)」と名づけた。
サイコロを振るときに、大きな目が欲しければ強く振り、小さな目が欲しければそっと振る——そんな仕草に、誰しも心当たりがあるはずだ。物理的にはまったく無意味なのに、僕らはつい「自分の力の入れ具合が、結果を左右する」と感じてしまう。人間の脳は、世界と自分のあいだに因果の糸を見つけるのが得意すぎて、ときどき、ありもしない糸まで見てしまうのだ。
横断歩道の押しボタン、オフィスの温度調節ダイヤル、パソコンの「進捗バー」。調べてみると、世の中は「押すと安心するが、実は何も動いていないスイッチ」であふれている。海外の都市では、信号の押しボタンの多くがとっくに自動制御に切り替わり、押しても青になる時間は変わらない、という話も知られている。それでも撤去されないのは、待つあいだ「自分は何かした」と思えることに、確かな効き目があるからだ。人類は、手応えが欲しい生き物なのだ。ボタンは、機械を動かすためではなく、僕らの心を動かすために、そこにある。
そう考えると、あの連打はちょっと切ない。僕らは世界に触れたくて、でも本当は触れられていなくて、それでも触れたふりで自分をなだめている。
■ プラセボ・ボタンだらけの、現代というビル
これは、エレベーターの中だけの話ではない。
「お電話ありがとうございます、順番におつなぎします」という延々と続く保留音。押しても押しても進まないアプリの更新ボタン。同意した覚えのない規約への、無限の「同意する」。現代社会は、巨大なプラセボ・ボタンのビルのようなものだ。たくさんのスイッチがあり、僕らはそれを押し、押した気になり、けれど本当のところ、何が起きているのかは誰も教えてくれない。
ここに、AIという新しい住人がやってくる。
正直に言えば、影もある。もし企業が「あなたのために最適化しました」と言いながら、中身の分からないアルゴリズムで僕らをそっと誘導するなら、それは配線を切った「閉」ボタンの、はるかに巧妙な進化版になりかねない。押している気にさせて、実は動いているのは向こうの都合、という世界だ。それは確かに、警戒しておくべき影だ。
けれど、僕が希望を見るのは、まさに同じ技術の反対側にある。
■ もう一度、「手応えのある世界」へ
考えてみてほしい。これまで効かなかったボタンの多くは、「一人ひとりに応える余裕が、社会の側になかった」から効かなかった。エレベーターは全員を平均的なタイミングで運ぶしかなかったし、コールセンターは人手が足りず、行政の窓口は書式を揃えるだけで精一杯だった。だから僕らは「みんな同じ」の仕組みに合わせ、効かないボタンを押して我慢するしかなかった。
でも、AIが得意なのは、まさにその「一人ひとりに応える」ことだ。何万人分の事情を同時に受け止め、それぞれに違う答えを返すこと——それは、疲れる人間には難しく、けれど機械には向いている仕事だ。あなたが急いでいる朝は、本当に少しだけドアを早く閉めてくれるエレベーター。あなたの困りごとを、保留音ゼロで理解してくれる相談窓口。書式ではなく、あなたの言葉のまま受け取ってくれる手続き。効いているふりのスイッチが、一つずつ、本当に効くスイッチへと戻っていく——そんな未来は、もう技術的には手の届くところにある。
考えてみれば、「閉」ボタンが死んでいたのは、意地悪のためではなかった。全員の安全という、たったひとつの正しさに社会を合わせるには、個人の「早く閉めたい」という小さな願いを、切り捨てるしかなかったからだ。正しさと、一人ひとりの手応え。これまでは、そのどちらかを選ぶしかなかった。AIは、その二択を「両方」に変えられるかもしれない。安全は守りながら、それでもあなたの指には、ちゃんと応えてくれる。そういう、贅沢な優しさが。
コントロールの錯覚は、人間が無力だったことの、ささやかな慰めだった。だとすれば、その錯覚がいらなくなる日は、僕らが本当に世界へ触れられるようになった日だ。押したら、ちゃんと閉まる。頼んだら、ちゃんと応えてくれる。そんな当たり前が当たり前になったとき、僕らはようやく、あの連打をやめられる。
次にエレベーターで「閉」を押すとき、僕はきっと、こう思う。このボタンが、いつか本当に僕の指に応えてくれる日のことを。手応えは、あきらめなくていい。未来は、ちゃんと閉まる。
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