「退屈」という名の絶滅危惧種——ヒマを殺し続けた僕らが、未来の博物館でそれと再会する話

西暦2140年。とある博物館の片隅に、ひとつのガラスケースが置かれている。中には何も入っていない。ラベルにはこう書かれている——「退屈(たいくつ)」。孫ほどの年齢の子どもが、案内役のAIに尋ねる。「ねえ、これ、何も入ってないよ」。AIは静かに答える。「ええ。これは、かつて人間だけが持っていた、とても貴重な感情の展示です」。子どもは首をかしげる。何もない箱を、なぜ人は宝物のように飾ったのか——。この短い物語から、今日は話を始めたい。

■ 僕らは十五秒すら、耐えられなくなった

正直に告白すると、僕はエレベーターが上の階に着くまでの十五秒に耐えられない。ポケットからスマホを取り出し、意味もなく画面を撫でる。信号待ちでも、レンジの加熱を待つ一分でも、指は勝手に光る板を探している。おそらく、あなたも心当たりがあるはずだ。現代社会は「退屈」を、まるで駆除すべき害虫のように扱っている。少しでも隙間ができれば、そこに動画や通知や広告を流し込み、一瞬たりとも「何もない時間」を許さない。僕らはいつのまにか、暇を敵だと思い込むようになった。だが、ここでハッとしてほしい。その「退屈」という感情、実は人類の歴史のなかで、ごく最近まで名前すら持っていなかったのだ。

■ 「退屈」は、たった百七十年前の発明品だった

英語で退屈を意味する「boredom(ボアダム)」という言葉が広く使われ始めたのは、驚くことに十九世紀のなかばだ。文豪チャールズ・ディケンズが一八五二年の小説『荒涼館』で用いたことで一般に広まった、という説がある。つまり、シェイクスピアの時代の人々は、僕らが感じるあの独特の「手持ち無沙汰なうんざり」を指す便利な言葉を、まだ持っていなかった。言葉が生まれたのは、産業革命で時計と工場が人々の時間を細かく区切り、「使われていない時間=もったいない時間」という感覚が生まれてからだ。退屈は、効率を崇拝する近代社会がうっかり産み落とした、双子のきょうだいのようなものだった。

日本にも似た話がある。鎌倉時代の随筆『徒然草』は、その冒頭で「つれづれなるままに」——することもなく手持ち無沙汰なままに、心に浮かぶよしなしごとを書きつける と宣言している。あの名文は、退屈を紛らわすどころか、退屈そのものの中に腰を下ろすことから生まれた。手持ち無沙汰は、昔から創作の入り口だったのだ。それを「無駄」と切り捨てるようになったのは、僕らの時代の、わりと新しい癖にすぎない。

もうひとつ、面白い科学の話をしよう。脳には「デフォルト・モード・ネットワーク」という仕組みがある。難しく聞こえるが、要は「ぼーっとしている時にこそ働く回路」のことだ。人がシャワーを浴びている時や散歩している時に、ふと良いアイデアがひらめく——あれは偶然ではない。何もしていない、あの退屈な時間にこそ、脳は記憶と記憶を静かに結び直し、新しい発想を編んでいる。退屈とは、創造の畑を耕すための、静かな休耕期間だったのだ。

歴史をさかのぼれば、こうした「暇からの発見」の逸話はいくらでもある。古代ギリシャの科学者アルキメデスは、王冠が本物の金か見破る難問に行き詰まっていた。答えがひらめいたのは、机の前ではなく、風呂にざぶんと身を沈めた、あの何気ない瞬間だった。湯があふれるのを見て、彼は「エウレカ(わかったぞ)」と叫んで裸で飛び出したという。真偽はさておき、この物語が二千年も語り継がれてきたのは、僕らが心のどこかで知っているからだろう——最高のひらめきは、必死に机に向かっている時ではなく、力を抜いてぼんやりしている時に、ふいに訪れるものだと。

■ 隙間を埋めるビジネスと、消えていく余白

ところが現代のテクノロジーは、この貴重な休耕期間を、片っ端から舗装して駐車場に変えてしまった。無限にスクロールできる画面。次の一本が自動で始まる動画。あなたの退屈を先回りして埋めてくれる、賢いおすすめ機能。これらは親切心で作られているようでいて、その本質は「あなたの隙間時間」という資源を売買するビジネスだ。僕らが退屈から逃げれば逃げるほど、誰かの画面滞在時間のグラフが伸びていく。皮肉なのは、そうやって隙間を埋め尽くしたはずなのに、一日の終わりに残るのは満足ではなく、なぜか「今日も何も生み出せなかった」という奇妙な疲れだ、ということだ。刺激で腹は膨れるのに、心はいつまでも空腹のまま。それはたぶん、脳に用意されていた休耕期間を、収穫のない工事現場で潰してしまったからなのだろう。

ここに、確かに影はある。もしAIが人間の全ての隙間を完璧に埋め尽くしたら、脳が発想を編む休耕期間は消え、僕らは自分の頭で何かを思いつくことすら忘れてしまうかもしれない。それは想像すると、少しだけ寒々しい未来だ。

■ シンギュラリティは、退屈を「返してくれる」

だが、物語の行き先はそこではない。むしろ僕は、この先に静かな希望を見ている。

考えてみてほしい。これまで人類は、生きるための労働と雑事に、一日の大半を差し出してきた。書類を書き、数字を並べ、同じ道を運転し、同じ会議に座る。退屈を紛らわすためにスマホを見ていたのではない。労働で疲れた心が、ただ受け身の刺激を欲しがっていただけだ。ではもし、シンギュラリティを越えた先で、AIがそうした「やらなくてもいい仕事」の大半を引き受けたら、どうなるだろう。僕らの手元に残るのは、恐れるべき暇ではなく、選び取ることのできる余白だ。

冒頭の博物館を思い出してほしい。あのガラスケースは、失われた退屈を嘆く墓標ではない。あれは、退屈を「取り戻した」時代の人々が、かつてそれを敵視していた愚かで愛おしい先祖——つまり僕らのことだ——を、優しく懐かしむための記念碑なのだ。二一四〇年の子どもは、退屈という感情を、恐れずに味わうことができる。何もない午後に窓の外を眺め、脳が勝手に紡ぐ物語に耳を澄ます。急いで埋める必要のない時間、誰の滞在時間グラフも伸ばさない時間。それは奪われるものではなく、贈られるものとして、そこにある。かつて贅沢とは、金や宝石のことだった。けれどこの子にとっての最高の贅沢は、たっぷりと退屈できること——ただそれだけなのだ。

だから今日は、レンジの前の一分だけでいい。スマホをポケットに戻して、ただぼんやりしてみてほしい。その退屈は、あなたの脳が次の何かを編み始める合図だ。未来は、暇を奪う場所ではない。奪われていた暇を、そっと返してくれる場所なのだから。

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