先週、僕はスマートフォンで地球の裏側にいる友人と顔を見ながら話し、AIに晩ごはんの献立を相談し、指先ひとつで銀行口座をつくった。ところが週末、近所の投票所でやったことといえば——鉛筆で紙に名前を書き、それを木の箱にそっと入れる、たったそれだけだった。ポケットの中には人類の叡智を詰め込んだ小さな板が入っているのに、僕らはいちばん大切な「みんなで決める」という作業だけは、いまだに紙と鉛筆でやっている。この落差に、思わず笑ってしまった。よく考えると、これはずいぶん奇妙な光景ではないだろうか。
■ 「陶器のかけら」から、僕らはどれだけ進歩したのか
投票という技術は、思っているよりずっと古い。紀元前の古代ギリシャ・アテネでは、「オストラキスモス(陶片追放)」という制度があった。市民が、危険だと思う政治家の名前を陶器のかけら——割れた壺の破片——に刻み、それを一か所に集める。数がいちばん多かった人物は、十年間、街から追放された。かけらは英語でオストラコンと呼ばれ、これが「ostracize(仲間はずれにする)」という英単語の語源になっている。
面白いのは、この陶片投票には「最低六千票なければ成立しない」といった、素朴ながらちゃんとしたルールまで備わっていたことだ。少数の思いつきで誰かを追い出せないよう、当時の人々なりに知恵を絞っていた。二千五百年前の人類が、すでに「暴走を防ぐ仕組み」まで考えていたと思うと、なんだか愛おしくなる。
とはいえ、だ。つまり僕らは、二千五百年前から本質的に同じことをしている。「一人が一つの意思表示をして、いちばん多い意見を採る」。素材が陶器から紙に変わり、追放が当選に変わっただけで、仕組みそのものはほとんどアップデートされていない。スマホのOSなら二千五百回はバージョンが上がっているだろう年月だ。多数決は、いわば人類最古のロングセラー・アプリなのである。長く愛されてきたのには理由がある——シンプルで、誰にでも分かり、そして何より「文句が出にくい」。数が多いほうが勝つ、それ以上に平等で明快なルールを、人類はまだ見つけられずにいる。
■ 天才数学者が見つけた「多数決のバグ」
ロングセラーには、実は昔からバグが埋め込まれていた。それを最初に暴いたのが、十八世紀フランスの数学者コンドルセだ。彼は、多数決が時に奇妙な矛盾を起こすことを証明してみせた。
たとえば、三人でランチを決めるとしよう。Aさんは「ラーメン>カレー>寿司」、Bさんは「カレー>寿司>ラーメン」、Cさんは「寿司>ラーメン>カレー」の順で好きだとする。ラーメンとカレーで多数決を採ると、ラーメンが勝つ(AとCが支持)。カレーと寿司ならカレーが勝つ。ところが、ではラーメンと寿司では——なんと寿司が勝ってしまう(BとCが支持)。ラーメンはカレーに勝ち、カレーは寿司に勝つのに、その寿司がラーメンに勝つ。じゃんけんのように、ぐるぐると勝敗が循環して、どこにも「みんなが納得する一番」が存在しないのだ。
これは「コンドルセのパラドックス」と呼ばれる。一人ひとりはちゃんと筋の通った好みを持っているのに、それを多数決で束ねた瞬間、全体としては支離滅裂になってしまう。決して珍しい話ではない。議題を出す順番を少し変えるだけで結論がひっくり返る、なんてことも理屈のうえでは起こりうる。今日の分断された政治のあちこちで、僕らはこの「ぐるぐる」を目撃している。多数決は、民意を映す鏡というより、ときに民意を歪ませる割れた鏡なのかもしれない。コンドルセ自身は、それでも民主主義を憎まなかった。彼は「人はもっと賢く議論できる」と信じ、その方法を数学で探し続けた楽観主義者だった。バグを見つけた人が、いちばん熱心にアップデートを願っていたのである。
■ 台湾の実験室:AIが「静かな声」を可視化する
では、この古いアプリをどうアップデートすればいいのか。ヒントは、意外にも隣の島にあった。台湾では「vTaiwan」や「Pol.is(ポリス)」と呼ばれる仕組みが、実際の政策づくりに使われてきた。
やり方はこうだ。ある論点について、市民が自由に短い意見を書き込む。他の人はそれに「賛成/反対」を押していく。ここでAIが活躍する。無数の賛否のパターンを解析し、「意見の地図」を描き出すのだ。すると不思議なことが起きる。ふだんは激しく対立して見える人々のあいだにも、実は「ここだけは全員うなずいている」という小さな共通の島がいくつも浮かび上がってくる。
声の大きい人だけが目立ち、静かな多数派の本音がかき消されてしまう——それが従来の議論だった。SNSでは、いちばん過激で挑発的な言葉ほど拡散し、穏やかな「まあ、そこは分かるよ」という声はタイムラインの底に沈んでいく。AIは、その静かな声をていねいに拾い上げ、「対立」ではなく「まだ気づかれていない合意」を探す道具になりうる。実際に台湾では、この方法を使って、配車アプリの規制のような、賛否が真っ二つに割れそうな難題についても、当事者たちが納得できる落としどころを見つけていったという。多数決が「どちらが勝つか」を競う技術だとすれば、これは「どこでなら僕らは一緒に立てるか」を見つける技術だ。同じ民主主義でも、向いている方向がまるで違う。前者が相手を追い出す陶片投票の子孫なら、後者は相手と机を並べるための、まったく新しい発明品なのだ。
もちろん、影もある。AIはアルゴリズム次第で世論を操る道具にもなるし、僕らの意見をこっそり誘導することもできてしまう。便利さと引き換えに、監視や分断を深める危険は確かに存在する。その影から目をそらすつもりはない。
■ 民主主義は、まだ「未完成のアプリ」だ
けれど、僕はそこに希望を見る。思えば民主主義は、完成された大理石の記念碑ではなく、二千五百年かけて人類がずっと手を入れ続けてきた「未完成のアプリ」だった。奴隷や女性を締め出していた時代から、少しずつバグを直し、参加できる人を増やし、ここまで改良してきた。だとすれば、AIという新しい道具を手にした僕らが、次のバージョンを書かない理由はない。
大切なのは、決定をAIに丸投げすることではない。そうではなく、AIを「みんなの声を聴くための、性能のいい補聴器」として使うことだ。いちばん大きな声ではなく、いちばん静かな声にまで耳を澄ませる。陶器のかけらから始まった長い旅の、その次の一歩を、僕らはようやく踏み出せる場所に立っている。
次に投票所で紙に名前を書くとき、僕はきっとこう思うだろう。この鉛筆は、まだ物語の途中なんだ、と。そしてその続きを書く鉛筆は、案外もう、僕らの手の中にある。
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