「渋滞」という不思議な発明——誰も止めていないのに、車が止まる日のこと

高速道路という名前は、たぶん世界でいちばん皮肉なネーミングだ。時速百キロで走れるはずの道の上で、僕らはしばしば時速ゼロキロ、つまり完全に停止して、前の車のブレーキランプをぼんやり眺めている。せっかく「速く動くための機械」を発明した人類が、その機械に乗って、いちばん時間をかけて「動かない」ことを実践している。お盆やお正月になると、テレビは「渋滞四十キロ」と、まるでスポーツの新記録のように読み上げる。よく考えると、これはずいぶん奇妙な光景ではないだろうか。速さを買ったはずなのに、僕らはお金を払って行列に並んでいる。

■ 誰も悪くないのに、道は詰まる

渋滞と聞くと、僕らはつい「先頭で誰かがのろのろ運転しているに違いない」と考える。事故か、工事か、とにかく「元凶」がいるはずだ、と。犯人を思い浮かべると、少しだけ気が晴れる。ところが不思議なことに、渋滞の先頭までようやくたどり着いても、そこには何もないことが多い。事故車もない、工事もない、ただ、いつの間にか車がすうっと流れ出す。犯人を捕まえに行ったのに、犯人がいない。この「原因なき渋滞」こそ、僕らのいちばん身近な、そして毎年くり返される小さなミステリーだ。

■ ぐるぐる回る車が教えてくれたこと

その謎に、日本の研究者たちがとても美しい実験で答えを出した。数学者・西成活裕さんらのグループは二〇〇八年、一周がおよそ二百三十メートルの円形のコースに二十台ほどの車をならべ、ドライバーにたった一つ、「ただ一定の速さで、前の車にぶつからないように走ってください」とだけ頼んだ。信号もない、交差点もない、割り込んでくる人もいない。合流も、料金所も、追い越しもない。つまり、教科書に出てくる「渋滞の原因」が一つも存在しない、いわば真空のような道路だ。誰も邪魔をしていない。それでも——最初のうちはなめらかに流れていた車の列に、しばらくすると、どこからともなく自然と「詰まり」が生まれ、それが後ろへ後ろへと、まるで生き物のように、波となってゆっくり伝わっていったのだ。しかもその波は、車の流れとは逆向きに、ほぼ一定の速さで後退していく。

なぜだろう。答えはあっけないほど人間くさい。人間は機械のように完璧には運転できない。前の車にほんの少し近づきすぎた一人が、軽くブレーキを踏む。すると後ろの車は、少しびっくりしてもう気持ち強めに踏む。そのまた後ろは、もっと強く踏む。ほんの小さな「ちょっと待って」が、後ろへ伝わるたびに増幅され、十数台もさかのぼるころには、完全な停止になっている。誰も悪くない。ただ、小さなためらいが将棋倒しのように連鎖して、道を固めてしまう。これは、スタジアムの観客席をぐるりと回るあの「ウェーブ」とそっくりだ。誰も隣の人に「立て」と命令していないのに、立ち上がる動きだけが席から席へと旅をしていく。渋滞もそれと同じで、車そのものが後ろへ下がるのではなく、「止まれ」という合図だけが、車から車へと乗り移りながら伝わっていく。実際この現象は、水面に広がる波紋や、音が空気を伝わる仕組みと、同じ種類の数式で説明できることが分かっている。渋滞とは、アスファルトの上を走る一種の「波」なのだ。目に見えないその波を、僕らは毎年、体でくぐり抜けている。

■ AIは、道の「呼吸」を整えられる

ここで登場するのが、AIと自動運転だ。面白いのは、この波を消すために、走っている全員が賢くなる必要はない、という点である。渋滞の中にたった一台、「前が詰まっても急ブレーキを踏まず、わざと車間をゆったり空けて、一定の速度を守り続ける車」を混ぜてやるだけで、後ろへ伝わろうとする波がその一台に吸い込まれ、詰まりがほどけていく。そんな実験結果が知られている。

人間はどうしても、目の前の一台だけを見て反射的に反応してしまう。ブレーキランプが光れば、条件反射でブレーキを踏む。それは僕らが臆病だからではなく、むしろ真面目で、慎重で、ぶつかりたくないと思っているからこそ起きる、優しさの副作用のようなものだ。けれどAIは、何十台先の流れまで一度に見渡したうえで、「今はあえて少しゆっくり行く」という、人間には案外勇気のいる判断を、汗もかかずに淡々とこなせる。実際、二〇一七年にアメリカで行われた実験では、二十台ほどの車の中にたった一台の自動運転車を混ぜ、その一台に賢く速度を保たせただけで、道全体のガソリン消費が四割近くも減ったと報告されている。たった一台の「余裕」が、二十台分の無駄を消したのだ。さらに車どうしが通信でつながれば、彼らはいわば「せーの」で加速し、「せーの」で減速できる。バラバラだった反応が、そろった一つの呼吸になる。すると渋滞という波は、みんなが少しずつ譲り合うだけで、驚くほどあっけなく溶けて消えてしまうのだ。

■ 少しの余裕が、未来を動かす

もちろん、影もある。車が一台残らず位置を記録され、どこへ向かうのかまでネットワークに握られる未来を、少し不気味に感じる人もいるだろう。その慎重さは、まったく正しい。誰が流れを設計し、誰がそのデータを持つのか——そこは僕らがしっかり目を光らせておくべき場所だ。

でも、と僕は思う。渋滞学が教えてくれたいちばん優しい真実は、「あの終わらない渋滞は、誰か一人の悪意で生まれたわけではなかった」ということだ。原因なく生まれた渋滞は、原因なくほどける。ほんの少し車間を空ける、ほんの少し先を見る、ほんの少し譲る——その小さな余裕が連鎖したとき、鉄のように固まっていた道は、嘘みたいにするりと流れ出す。

社会も、たぶん同じなのだと思う。僕らが日々ぶつかる混雑や停滞の多くは、どこかに悪者がいて起きているのではなく、みんなが目の前だけを見て、少しずつ縮こまった結果として生まれている。だとすれば、それをほどく鍵もまた、遠い誰かの手ではなく、僕らの「ほんの少しの余裕」の側にある。AIは、その余裕をそっと思い出させてくれる、気のきいた同乗者のようなものだ。人間を追い越して運転席を奪う存在ではなく、隣で「今は焦らなくて大丈夫」と教えてくれる相棒。

次にあなたが渋滞にはまったら、イライラする前に、少しだけ車間を空けてみてほしい。あなたのその小さな一手の後ろで、波が一つ、誰にも気づかれないまま静かにほどけているかもしれない。動き出す未来というのは、案外そんな、ささやかなゆとりの連鎖から、静かにはじまっているのだ。

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