いま、あなたはこの記事を開くために、たぶん一回「クリック」した。今日はもう何回、あの小さな音を鳴らしただろう。カチ、カチ、カチ。買い物カゴに入れて、既読をつけて、動画を早送りして、また閉じる。僕らは一日に何百回も、机の上の”ネズミ”を指先で叩いて、世界に無言の返事をしている。あまりに当たり前で、誰もその音を「発明」だとは思わない。空気や重力とおなじ、最初からそこにあったもの——そんな顔をして、マウスは僕らの手のひらに収まっている。
でも、そのネズミを最初に木を削って作った男は、「操作を速くする道具」なんて、実はこれっぽっちも作りたくなかった。彼が本当に手渡そうとしたのは、まったく別のものだった。
■ 一九六八年、九十分で”未来”を全部見せた男
その人の名前は、ダグラス・エンゲルバート。一九六八年十二月九日、サンフランシスコのコンピュータ学会で、彼は九十分間のデモを行った。のちに「The Mother of All Demos(すべてのデモの母)」と呼ばれる伝説の実演だ。
当時のコンピュータといえば、部屋いっぱいの巨大な鉄の箱に、パンチカードという穴あき紙を食べさせて計算させる代物だった。人間が機械に「お願い」をして、翌日ようやく答えが返ってくる。そんな時代である。
ところがエンゲルバートは、その日、画面の中の文字をひょいと動かしてみせた。手元の木の箱を机の上で滑らせると、画面の光の点が同じように動く。彼はそれを、コードが尻尾みたいに見えるから「マウス」と呼んだ。さらに彼は、離れた場所にいる同僚と画面を共有し、同じ文書を二人で同時に書き換え、顔を映しながら会話してみせた。文字の一部を押すと別の文書へ飛ぶ仕掛け——いまでいうリンクも、その場で動いていた。
しかも、その会場のスクリーンに映っていた画面は、五十キロほど離れた研究所のコンピュータから、電話回線を通じて中継されていた。いまでいう遠隔操作を、まだインターネットが生まれる前にやってのけたのだ。最初のマウスは、木の箱に二つの車輪を直角に仕込んだだけの、手のひらサイズの素朴な代物だった。それでも、実演を見終えた研究者たちは総立ちで拍手したという。自分たちが「まだ来ていない」と思っていた未来が、目の前でもう息をしていたのだから。
ビデオ会議も、共同編集も、ハイパーリンクも。僕らが「二〇二〇年代の日常」だと思っているものが、白黒のブラウン管の中に、五十年以上も前からぜんぶ揃っていたのだ。ここで一度、ハッとしてほしい。僕らは新しい未来を生きているつもりで、半世紀前の一人の男が描いたスケッチの中を、まだ歩いている。
■ 彼が敵に回した、もう一つの”AI”
なぜ、そんなに早く未来が見えていたのか。それは、エンゲルバートが「コンピュータで計算を速くしたい」と思っていなかったからだ。
彼の一九六二年の報告書のタイトルは、そのものずばり「人間の知性を拡張する(Augmenting Human Intellect)」。彼が生涯かけて追いかけたのは、”人間の頭を賢くする道具”だった。眼が悪い人にとっての眼鏡、遠くへ行きたい人にとっての自転車。それと同じで、考えることそのものを助ける「頭のための自転車」を作ろうとしていた。
この「自転車」というたとえには、面白い裏話がある。ある動物の移動効率を比べた研究で、体重あたりいちばん少ないエネルギーで進める”王者”はコンドルだった。人間はずっと下位の凡庸なランナーにすぎない。ところが、人間に自転車を与えてもう一度測ると、コンドルをはるかに追い抜いて堂々の一位になる。道具ひとつで、平凡な生き物が地上でいちばん効率のいい移動者に化けるのだ。エンゲルバートが夢見たのは、まさにこれの”頭バージョン”だった。生まれつきの賢さを競うのではなく、道具と組むことで、ふつうの人がとんでもなく遠くまで考えられるようにする——それが彼の狙いだった。
当時、コンピュータ研究には大きく二つの流派があった。ひとつは「人工知能(AI)」——機械そのものを人間の代わりに賢くしよう、という発想。もうひとつがエンゲルバートたちの「知性の拡張(IA=Intelligence Augmentation)」——機械はあくまで相棒で、人間の側を賢くしよう、という発想だ。
同じ「賢い機械」を夢見ながら、片方は”人間を置き換える”方へ、片方は”人間と組む”方へ。マウスもリンクも共同編集も、ぜんぶ後者の副産物だった。人が考えを外に出し、みんなで練り上げ、また持ち帰る。その循環を少しでも滑らかにするための、小さな部品にすぎなかった。だから彼にとって、クリックの速さなんて心底どうでもよかったのだ。
■ 僕らは”頭のための自転車”で、何をしているか
さて、ここで少し胸が痛む。エンゲルバートが「人類の集合知を拡張する装置」として夢見たものを、二〇二〇年代の僕らは、たいてい「いいね」を押すために使っている。世界中の知恵とつながれる窓を、真夜中に指でなぞり続けて、朝には何も残っていない。壮大な”知性の自転車”は、いつのまにか、ただ速くペダルを回すだけのルームランナーになっていた。
けれど、ここからが希望の話だ。いま登場してきたAIは、この五十年の”分かれ道”を、そっと一本に縫い合わせようとしている。
文章を書けば、足りない視点を補ってくれる。考えが行き詰まれば、隣で別の角度を差し出してくれる。難しい論文を、中学生にもわかる言葉に翻訳してくれる。これはもう「人間を置き換えるAI」ではない。エンゲルバートが夢見た「人間を拡張するIA」そのものだ。皮肉なことに、AIという名前の技術が、いま彼のIAの夢を叶えようとしている。眼鏡が視力を、自転車が脚力を拡張したように、AIは僕らの”考える力”を拡張する相棒になりつつある。
■ 影と、その先にある温かい話
もちろん影はある。同じ道具は、人を賢くする方向にも、人を置き換えて手を止めさせる方向にも使える。僕らが「考えること」まで丸ごと預けてしまえば、自転車はまた、動かないルームランナーに戻るだろう。
でも、それを決めるのは技術ではなく、僕らがどちらのハンドルを握るかだ。エンゲルバートは、機械を賢くする前に「人間の側を賢くしよう」と言い続けた。裏を返せば、道具の値打ちは、それを使う僕らがどれだけ遠くへ行きたいかで決まる、ということでもある。
今日もあなたは、何百回とクリックするだろう。その一回一回は、半世紀前に一人の男が「これは操作の道具じゃない、君の知性を広げる翼だ」と信じて、木を削って作ったネズミの子孫だ。カチ、という小さな音は、無意味な返事なんかじゃない。あれは、人間がもっと遠くまで考えられるようにと願った人が、僕らの手のひらに残していったモールス信号だ。
その信号を、今日はどこへ向けて打とう。ルームランナーではなく、まだ見ぬ丘の上へ。マウスを握ったその手は、五十年前から、ちゃんと未来へつながっている。
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