■ 「きっちり2,847円ね」という、いちばん礼儀正しい他人行儀
飲み会のあと、スマホの画面をみんなで覗き込む。誰かが「一人あたり、きっちり2,847円ね」と告げる。アプリが1円単位まではじき出したその数字を、僕らは律儀に送金し合う。誰も損をしない。誰も得をしない。完璧に、平等だ。
でも、ふと思う。さっきまで肩を組んで笑っていた相手と、僕はいま、1円単位の精算をしている。「あの唐揚げ、君は2個で僕は1個だったよね」——そんな会話が、冗談ではなく本気で交わされることさえある。誰かがビールをもう一杯多く頼んだかどうかを、僕らは記憶をたどってこっそり検算する。平等で、公平で、そして少しだけ、さみしい。
割り勘は、たしかに賢い発明だ。おごる・おごられるの気まずさを消し、貸し借りの記憶を残さない。けれど、その正確さは、いつのまにか「友だちとお金の話をしないための礼儀」を通り越して、「友だちを一人の取引相手として扱う技術」になってはいないだろうか。僕らは知らないうちに、やさしさに電卓を持ち込んでしまったのかもしれない。
■ 貝の首飾りが海を渡った理由——お金より前、人は「貸し」で繋がっていた
ここで、時計を思いきり巻き戻してみる。
お金がまだ影も形もなかった時代、人はどうやって「分けて」いたのだろう。答えは、少し意外だ。彼らは、割り勘をしなかった。それどころか、むしろ正反対のことをしていた。
いまから100年ほど前、人類学者のマリノフスキーは、南太平洋のトロブリアンド諸島で、ふしぎな習慣を記録した。島々の人々は、貝でつくった首飾りと腕輪を、丸木舟で命がけの海を渡って隣の島へ運び、ただ「贈る」のだ。売るのでも、その場で物々交換するのでもない。贈られた相手は、しばらく経ってから、また別の贈り物を返す。値段も、期限も、契約書もない。この「クラ交易」と呼ばれる贈り合いの輪で、遠く離れた島々は何百年ものあいだ結ばれてきた。
フランスの社会学者マルセル・モースは、こうした世界じゅうの風習を集めて『贈与論』(1925年)という本を書き、ひとつの真実を言い当てた。贈り物とは、モノのやりとりではなく「関係」そのものなのだ、と。その場できっちり清算してしまえば、縁はそこでプツリと切れる。あえて「貸し」を残しておくからこそ、「また会おう」という、次への約束が生まれる。
つまり、僕らの祖先にとって、貸し借りが残ることは、不便でも、気まずさでもなかった。それは、絆そのものだったのだ。「この前ごちそうになったから、今度は僕が出すよ」。その小さな、清算しきらない気持ちの連鎖こそが、人と人とを長くつないできた糸だった。
面白いことに、これは人間だけの発明ですらない。中南米にすむチスイコウモリは、うまく血を吸えずに帰ってきた仲間に、自分が吸ってきた血を分け与えることが知られている。生物学者のロバート・トリヴァースは、こうした助け合いを「互恵的利他行動」と名づけた。今日は僕が分けてあげる。だから、僕が飢えた夜には、君が分けてくれる——きっちり同時に清算などせず、貸しと借りを未来へ持ち越すこの仕組みは、コウモリの群れを何万年も生き延びさせてきた。清算を急がないことは、弱さではなく、むしろ賢さだったのだ。
■ 1円は、AIに任せていい——精算を手放して、贈与を取り戻す
では、正確な割り勘は「悪」なのだろうか。もちろん、そんなことはない。
よく考えてみれば、1円単位まで公平に分けたいという気持ちの奥には、「誰も傷つけたくない」という、まぎれもないやさしさがある。おごれば、相手によけいな気を遣わせてしまう。おごられれば、こちらに負い目が残る。その小さな摩擦を避けようとして、僕らはそっと電卓を握りしめた。だから、悪いのは電卓ではない。ほんとうの問題は、その計算そのものに、僕ら自身がいつのまにか疲れてしまったことのほうだ。
そして、まさにここに、AIの出番がある。
いまや決済アプリは、レシートを一枚撮るだけで品目を読み取り、「誰が何を食べたか」まで、ほんの数秒で割り振ってくれる。そう遠くない未来、AIはきっと、それぞれの財布事情や、この半年で誰が何回おごったかまでやわらかく踏まえて、いちばん角の立たない分け方を、そっと差し出してくれるだろう。1円をめぐる、あのいちばん無粋な計算を、AIが静かに肩代わりしてくれるのだ。
もちろん、影もある。なにもかもを機械に最適化させてしまえば、「今日は僕が出すよ」という、あの少し照れくさい申し出の出番は、減ってしまうかもしれない。完璧に公平な世界では、誰かがちょっと多めに払う、あの不器用なやさしさの居場所がなくなってしまう。効率は、ときに人間の気前のよさを、あっさり追い越してしまうものだから。
けれど、と僕は思うのだ。計算という重たい荷物をAIに手渡せたなら、僕らはようやく、計算しなくてよくなる。数字の呪縛からほどかれた手で、僕らはもう一度、あの古い「贈与」を、自分の意思で選び直せるようになる。電卓を捨てるのではない。電卓を、僕らより計算の得意な相棒に預けてしまうのだ。そうして初めて、人間は「損得」から顔を上げて、目の前で笑っている相手のほうを、まっすぐ見られるようになる。
■ 「今日は、僕が」を、もう一度言えるように
未来の飲み会を、少しだけ想像してみる。精算はテーブルの下でAIがとうに済ませていて、もう誰も、スマホの画面を険しい顔で覗き込んだりしない。テーブルの上に残っているのは、細かい数字ではなく、ただ、あたたかい笑い声だけだ。
そのとき、誰かがふと、こう言う。「今日は、僕が」。アプリをそっと止めて、そう言える余白を——テクノロジーは奪うのではなく、むしろ僕らに返してくれる。正確さを機械にあずけたぶんだけ、人間は、非効率で、少し不公平で、けれどたしかにあたたかい選択を、また自分の手に取り戻せる。
割り勘は、友情のテーブルに持ち込まれた、一台の電卓だった。でも、その電卓をAIのポケットにそっとしまえた日、僕らはきっと思い出す。人と人とを長くつないできたのは、きっちり清算された1円のほうではなく、あえて残しておいた、あの「貸し」のほうだったことを。
未来は、貝の首飾りを抱えて海を渡っていった、あの島の人々の——おおらかで、少しおせっかいな贈り合いのほうへ。ぐるりと大きく一周して、静かに還っていくのかもしれない。
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