百聞は一見に如かず。「この目で見たんだから間違いない」——僕らは「見る」という行為を、この世でいちばん信用している。裁判では目撃証言が特別扱いされ、恋人の浮気を疑うときですら、人は最後に「現場をこの目で確かめる」ことを望む。ところが、である。あなたはたった今、この文章を読んでいるあいだにも、すでに何度も”停電”していた。まばたき、である。
■ あなたは毎日、世界を「見ていない」
人は1分間に、だいたい15回から20回ほどまばたきをする。1回にかかる時間は、わずか0.1秒あまり。「なんだ、一瞬じゃないか」と思うだろう。でも、塵も積もれば山となる。起きているあいだじゅう繰り返せば、その回数は1日で1万5千回を軽く超え、目を閉じている時間を全部足すと、なんと合計で数十分にもなる。つまり僕らは毎日、映画1本ぶんに近い時間を、真っ暗闇の中で過ごしている。
それなのに、だ。あなたは今日、一度でも「うわ、暗くなった」と感じただろうか。おそらく、一度も。世界が数十分ぶん途切れているのに、その”停電”に僕らはまるで気づかない。もし部屋の照明が1日に1万5千回パチパチと消えたら、誰だってブレーカーを疑う。ところが自分の目のことになると、僕らは驚くほど無頓着でいられる。
なぜ気づかないのか。答えは、脳が「わざと気づかせないようにしている」から。まばたきの瞬間、脳は視覚の感度をこっそり下げ、その暗闇を”編集でカット”してしまう。これは「まばたき抑制(blink suppression)」と呼ばれる、れっきとした脳のはたらきだ。目が勝手にサボっているのではない。脳が、あなたに気を遣って、暗転を隠してくれているのである。
さらに不思議なのは、僕らのまばたきの回数が、目を潤すために本当に必要な数を、はるかに超えていることだ。乾燥を防ぐだけなら、1分間に数回で足りるという。それなのに、なぜこんなに多く目を閉じるのか。近年の研究では、まばたきのたびに脳がほんの一瞬だけ”ひと息つき”、注意をリセットしているのではないか、という見方が出てきている。つまりまばたきは、目の掃除であると同時に、脳のこまめな休憩でもあるらしい。会話の切れ目や、文章の句読点のところで、僕らは無意識にパチッと目を閉じている。あの一瞬は、思考の「、」なのかもしれない。
■ 「見る」とは、録画ではなく編集だった
今から150年ほど前、ヘルマン・フォン・ヘルムホルツというドイツの科学者が、当時としてはかなり大胆なことを言い出した。「見るという行為は、カメラのように世界をそのまま写し取ることではない。脳が”たぶんこうだろう”と無意識に推理し、映像を組み立てているのだ」と。彼はこれを「無意識の推論」と呼んだ。目はレンズにすぎず、本当の”見る”仕事は、暗い頭蓋骨の中で行われている、というわけだ。
ウソだと思うなら、今すぐ鏡の前で試せる実験がある。鏡に映った自分の左目を見つめ、次にスッと右目へ視線を移す。左、右、左、右、何度でもいい。——さて、あなたは自分の目が動く「その瞬間」を、一度でも見られただろうか。見られない。絶対に、である。他人が同じことをすればハッキリ見えるのに、自分の目の動きだけは、どうやっても捉えられない。視線を動かしているコンマ数秒の”ブレた映像”を、脳がこれまた勝手にカットしているからだ。
つまり、僕らが「現実」だと信じて眺めている風景は、生中継ではない。脳という優秀な編集者が、暗転もブレも退屈な間も切り落とし、なめらかに繋いでくれた”完成品の映画”なのだ。僕らは生まれてこのかた、ずっとダイジェスト版の世界を見て、それを「ありのまま」と呼んできた。ハッとする話だが、しかしこれは、脳の欠陥ではない。むしろ傑作の編集技術である。
■ AIという、新しい”編集者”
さて、ここでAIの話をしたい。近ごろのAIは、まさにこの「足りない情報を、それらしく補う」という仕事が、猛烈に得意になった。粗い画像をくっきりさせたり、欠けた古い写真を描き足したり、暗い夜道の映像を昼のように明るく起こしたり。やっていることは、実は僕らの脳と驚くほど似ている。「たぶんここは、こうなっているはず」という推論で、現実の隙間を静かに埋めているのだ。
たとえば、あなたのスマホで撮った夜景がやけにきれいに写るのも、これに近い。レンズが受け取った光の情報だけでは、本当は暗くてザラザラの写真にしかならない。そこにAIが「この暗がりは、たぶんこういう色と形のはず」と推論を重ね、一枚の美しい夜景に仕立て直している。指先の小さなカメラの奥で、ヘルムホルツの「無意識の推論」が、シリコンの脳によってもう一度、再現されているのだ。
これを聞いて、少し不安になった人もいるかもしれない。脳もAIも”勝手に補う”のなら、僕らはいったい何を信じればいいのか、と。ここに、影がある。AIが補い、書き換えた映像は、ときに本物と見分けがつかない。フェイク画像やなりすまし動画が、人の目を平気で欺く時代でもある。「この目で見た」が、いちばん揺らいでいるのが、今なのだ。
けれど、思い出してほしい。僕らの脳だって、生まれたときからずっと”補って”きたのだった。無意識の推論がなければ、世界はブレと暗転だらけの、見るに耐えないノイズの塊だっただろう。補うことは、ごまかしではない。世界をちゃんと生きるための、優しい工夫だったのだ。大事なのは補うこと自体を恐れることではなく、その編集を、より賢く、より誠実にしていくことのほうだ。
■ それでも、僕らは”もっと見える”側へ行ける
AIという新しい編集者は、その工夫を、僕ら一人ひとりの体の外側にまで広げてくれる。肉眼では暗すぎて見えなかった深海を、電波でしか届かなかった遠い銀河を、小さすぎて見逃していた細胞のひとつを——「たぶんこうだ」の精度をどこまでも上げて、僕らに”見せて”くれる。まばたきの暗闇を脳がそっと繋いでくれたように、AIは人類がこれまで見落としてきた無数の”停電”を、これから埋めていってくれるのかもしれない。
見ることが、もともと編集だったのなら。編集者が優秀になるほど、僕らはより多くの世界と出会えるはずだ。次にまばたきをするとき、ほんの少しだけ想像してみてほしい。この一瞬の暗闇の向こうで、脳は今日も健気に、あなたのためだけに世界を繋いでくれている。そしてこれからは、その仕事をそっと手伝ってくれる新しい相棒が、となりに座っている。
僕らはきっと、まだ見ぬものを、もっと見られるようになる。目を閉じても、世界が途切れなかったように。未来もまた、ちゃんと繋がっている。
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