「1日1万歩」という、60年前のキャッチコピー——歩数計が、ずっと数え忘れていたもの

けさも、僕のスマホは静かに僕を採点していた。「あと2,340歩」。夜、寝る前にその数字を見て、なぜか少しだけ後ろめたい気持ちになる。歩かなかった一日は、まるで「サボった一日」であるかのように、赤い折れ線グラフの谷になって記録されている。

僕らはいつのまにか、自分の一日を「歩数」で採点する生き物になった。エレベーターの前で一瞬ためらい、階段を選んだ自分を少しだけ誇らしく思う。一駅ぶん手前で降りて歩く。それ自体は健康的で、悪いことはひとつもない。ただ、ふと不思議になるのだ。どうして目標が、きっちり「1万歩」なのだろう。9,800歩でも、11,000歩でもなく、あの気持ちのいいゼロが四つ並んだ数字。誰が、いつ、「1万」と決めたのか。

■ その「1万」は、科学ではなく”語呂合わせ”だった

答えを知ると、たぶん少しだけ、肩の力が抜ける。「1日1万歩」という目標は、医学の研究室から生まれたものではない。1965年、東京オリンピックの熱気がまだ日本中に残っていたころ、山佐時計計器という会社が発売した歩数計の”商品名”から広まったものなのだ。

その名も「万歩計(まんぽけい)」。開発に関わった研究者たちが、健康のために「1日1万歩くらい歩けたらいいね」という目安を掲げ、それを商品名にした。理由のひとつが、なんとも粋だ。漢字の「万」という字は、少し崩すと、人が両手両足を広げて歩いているように見える——だから「万歩」。健康の科学的根拠というより、覚えやすく、語呂がよく、そして少しだけ縁起のいい”キャッチコピー”だったのである。

時代背景も効いていた。前の年に東京オリンピックを終えた日本は、高度成長のまっただ中。会社勤めが増え、みんな座りっぱなしになりはじめた頃だ。「運動不足」という新しい悩みに、「じゃあ、歩数を数えてみよう」という発明はぴたりとはまった。ちょうどいい語感の目標と、それをカチカチ数えてくれる小さな機械。この二つがセットで世に出た瞬間、「1万歩」はただの目安を超えて、日本から世界へ広がる”合言葉”になっていった。

もちろん、たくさん歩くのはいいことだ。でも「ちょうど1万」に医学的な魔法があるわけではない。実際、近年の大規模な研究では、歩数が増えるほど死亡リスクは下がるものの、その効果は7,000〜8,000歩あたりでゆるやかに頭打ちになる、という報告も出ている。つまり僕らは半世紀ものあいだ、ある会社のうまいネーミングを、まるで人体の絶対法則のように信じて、毎晩スマホに叱られていたことになる。

■ 数字は、いつも僕らより先に走り出す

これは笑い話ではなく、人間のとても愛おしい癖の話だと思う。僕らは「測れるもの」を見つけると、いつのまにかそれ自体を目的にしてしまう。

たとえば体温計を思い出してほしい。「平熱36度5分」も、150年ほど前のドイツの医師が大量に測って出した”平均値”にすぎず、本当は人によって少しずつ違う。それでも数字が世に出たとたん、僕らは「36度5分こそ正常」と信じ込んだ。数字には、そういう不思議な引力がある。ぼんやりした「なんとなく元気」を、くっきりした「36.5」や「10,000」に変えてくれる。その明快さが、心地よくて、そして少しだけ僕らを縛る。

経済学には「グッドハートの法則」という有名な指摘がある。ざっくり言えば、「ある数字が目標になったとたん、その数字はいい指標ではなくなる」。テストの点を上げることが目的になると、学ぶことより点取りがうまくなる。歩数を稼ぐことが目的になると、エレベーターの前でうろうろ歩き回る——僕のことだ。数字は道しるべのために生まれたのに、いつのまにか僕らの前をひとりで走り出してしまう。地図を見ていたはずが、いつのまにか地図に追いかけられている、と言ってもいい。

■ AIは、「1万」を捨てて「あなた」を数えはじめる

ここからが、僕がわくわくしている未来の話だ。

「1日1万歩」という号令が全員に同じだったのは、それしか測れなかったからだ。1965年の歩数計は、腰の振動をカチカチ数えるだけの、けなげな機械だった。だから目標も、みんな一律の切りのいい数字にするしかなかった。全員に配れる”制服”のような目標だったのである。

でも、いまあなたの手首やポケットにいる小さなAIは、もう歩数だけを見てはいない。心拍、睡眠の深さ、歩くときの左右のバランス、回復の速さ。それらを日々学びながら、「今日のあなたは疲れているから、7,000歩で十分。むしろ早く休もう」と、そっとささやける時代に入りつつある。かつては全員が同じ「1万」に合わせて背伸びをしていた。これからは、数字のほうが、一人ひとりに合わせて背をかがめてくれる。

もちろん、影がないわけではない。四六時中データを測られる暮らしには、息苦しさもある。数字に見張られ、健康すら”成績表”にされてしまう不安は、たしかにそこにある。けれど僕は、テクノロジーが向かう先を、もう少し信じたい。測定の目的が「全員を一本の基準に並ばせること」から「一人ひとりの”ちょうどいい”を見つけること」へ移っていくなら、それはむしろ、数字を人間の側に取り戻す動きだからだ。

■ 数えられないものの、となりで

考えてみれば、歩数計がずっと数え忘れてきたものがある。夕暮れの空がきれいで、遠回りして帰った10分。考えごとをしながら、行き先も決めずにうろついた散歩。恋人と手をつないで、わざとゆっくり歩いた道。歩数計にとっては同じ「一歩」でも、僕らにとってはまるで重さの違う一歩だ。

「1万」という数字は、日本のある会社の、ちょっと洒落たネーミングから生まれた。60年かけて世界中に広がった、やさしい”勘違い”だ。その勘違いのおかげで、たくさんの人が今日も一歩を踏み出しているのだから、これはこれで、なかなか幸せな発明だったと思う。

そして僕らはいま、その一律の号令から、そっと自由になろうとしている。AIが「あなたの、ちょうどいい」を数えてくれるようになったとき、きっと僕らはもう一度、数字の外側を見る余裕を取り戻す。何歩あるいたかではなく、その道でどんな空を見上げたか。未来のテクノロジーがいちばん静かに贈ってくれるのは、たぶん、そういう”数えられないもの”を、また味わうための時間なのだと思う。

さあ、今日は何歩あるこうか。——いや、まずは、いい空を探しに行こう。

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