居酒屋の会計で、四人で割り勘をする場面を思い浮かべてほしい。総額はテーブルの上に表示されている。なのに、誰かが必ずスマホを取り出して、電卓アプリを開く。指がこわばる。「えっと、8600円を4で……」。その人は、まちがいなく子どものころ「ハチロクシジュウハチ」と歌えた人だ。
ここに、現代でいちばん見過ごされている奇妙さがある。僕らは人生の最初期に、膨大な時間をかけて掛け算の表を体に叩き込んだ。それも、泣きながら、居残りをしながら、家の風呂の中でまで。そしてその苦労の結晶を、大人になった今、機械にまるごと外注している。せっかく覚えた九九を使わず、ポケットの中の計算機に頼る。まるで、必死に泳ぎを覚えた人が、プールサイドで浮き輪を膨らませているような話だ。
しかも不思議なことに、多くの大人は「暗算が苦手」と口にしながら、なぜか自分の子どもにはしっかり九九を覚えさせようとする。役に立たないと思っているなら、やめさせてもいいはずなのに。この矛盾の奥に、実は大事なヒントが隠れている。あの「ニニンガシ、ニサンガロク」の暗唱は、いったい何のためだったのだろう。
■ 四千年前、人類は「答えの早見表」を粘土に刻んでいた
実は、九九は日本の発明でも、そんなに新しいものでもない。人類は驚くほど昔から、掛け算の一覧表を作り続けてきた。
いちばん古い部類の証拠は、約四千年前のメソポタミア(今のイラクあたり)にある。彼らは粘土板に、くさびのような文字で掛け算の表を刻んでいた。学校の宿題のように、何十枚もの「九九プリント」が発掘されているのだ。しかも彼らの数え方は六十進法——一時間が六十分なのは、その名残だと言えば、四千年の距離が急に縮まらないだろうか。
中国では、二〇〇八年に「清華簡(せいかかん)」と呼ばれる竹の札の束が、大学に寄贈されて見つかった。紀元前三〇〇年ごろのもので、二十一本の竹の札を並べると、十進法の掛け算表がびっしりと浮かび上がる。今わかっている限り、世界最古の「十進法の九九表」だ。エクセルの表計算ソフトの、二千三百年前のご先祖さまが、竹でできていたと思うと、なんだか愛おしい。つまり僕らが暗唱するあの表は、姿をほとんど変えずに受け継がれてきた「文化の化石」なのである。
そもそも、なぜ掛け算の表を「九九」と呼ぶのか、考えたことはあるだろうか。昔の中国や日本では、暗唱を「九九八十一(くくはちじゅういち)」——つまり一番大きな九の段から始めていた。その出だしの音をとって「九九」と名づけられたのだ。今のように「二二が四」と小さい段から始めるようになったのは、ずっと後のこと。名前だけが、大昔の順番の記憶を、そっと化石のように残している。
日本にも、そのDNAは古くから流れ込んでいた。驚くのは『万葉集』だ。奈良時代の歌人たちは、「十六」と書いて「しし」と読ませる遊びをしていた。四×四=十六だから、というわけだ。獣(しし)を、わざわざ「十六」と書く。千三百年前の宮廷の人々が、九九を当たり前の共通言語として、和歌のダジャレにまで使っていた。九九は昔から、頭の知識である前に、体にしみついた「リズム」だったのだ。
■ AIが計算する時代に、九九を教える意味はあるのか
さて、話を現代に戻そう。今や電卓どころか、AIが桁数の多い計算も、複雑な数式も、一瞬でこなす。ならば「九九なんて、もう覚えなくていいのでは?」という声が上がるのも当然だ。答えを出すだけなら、機械のほうが速くて正確なのだから。
けれど、ここに視点の転換がある。九九の本当の価値は、答えそのものではなかった。
九九を暗唱できる人は、「7×8は?」と聞かれて表を引いているわけではない。「56」がリズムとして体から飛び出してくる。これは記憶というより、数の「手ざわり」だ。この手ざわりがあると、面白いことが起きる。誰かが「7×8は54だよ」と言ったとき、計算しなくても、瞬時に「なんか、おかしい」と感じられるのだ。
この「違和感センサー」こそ、AI時代の主役になる。今のAIは、とても流暢に、ときどき堂々とまちがえる。専門用語で「ハルシネーション(幻覚)」と呼ばれる現象で、もっともらしい顔で、事実でない数字や引用を差し出してくることがある。人間のように口ごもらず、自信満々に。だからこそ厄介なのだ。
そのとき、答えを鵜呑みにせず「その桁、ひとつ多くない?」と踏みとどまれるのは、体に数の感覚が染み込んだ人間だ。レジで出たおつりに一瞬で「あれ?」と気づく、あの感覚。あれは計算しているのではなく、感じている。九九は、答えを出す道具から、答えを見張る目へと、静かに役割を変えていく。機械が計算を担うほど、それを検算する人間の直感の値打ちは、むしろ上がっていくのだ。
■ もちろん、暗唱には影もある
公平を期すために、影にも触れておこう。ひたすら繰り返す暗唱が、算数を嫌いにさせてしまう子がいるのは事実だ。「なぜそうなるのか」を置き去りにして、呪文だけを丸暗記させれば、数はただの苦役になる。理解の伴わない暗記は、たしかにもろい。
でもそれは、九九そのものの罪ではない。「なぜ三×四と四×三が同じなのか」を、おはじきを並べて目で見せてから、最後にリズムで仕上げる。歌のように楽しく、意味とセットで手わたせば、あのリズムは一生ものの財産になる。問題は道具の使い方であって、道具を捨てる理由にはならない。むしろAIが計算を肩代わりしてくれる今こそ、「答え」を急がず、「なぜ」にゆっくり寄り道できる余裕が生まれているのかもしれない。
■ 「答え」を手放し、「感覚」を手に入れる時代へ
考えてみれば、僕らはこれまで「たくさん覚えて、速く答えを出せる人」を賢いとしてきた。九九も、その価値観の入り口だった。けれどAIが答えを無限に、瞬時に出す世界では、その物差しはそっと役目を終える。
代わりに大切になるのは、機械が出した答えを前に「ほんとうに、そうかな」と立ち止まれる感覚だ。数の手ざわり、言葉の手ざわり、世界の手ざわり——体にしみこんだ直感こそが、暴走しがちな機械の隣で、僕らを人間らしく踏みとどまらせてくれる。
だから、今日もどこかの教室で「ニニンガシ」と歌っている子どもは、消えゆく技術を惜しんでいるのではない。むしろ逆だ。あの子は今、一生使える「違和感アンテナ」を、自分の体にそっとインストールしている最中なのだ。答えが一瞬で手に入る未来ほど、その小さなアンテナは、静かに、確かに、輝きを増していく。
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