「エレベーターで、なぜ僕らは天井の数字を見上げるのか」——”知らんぷり”という、人類がいちばん礼儀正しく発明した”優しさ”の話

エレベーターに、見知らぬ人と二人きりで乗り込む。すると僕らはほぼ全員、判で押したように同じ動きをする。ドアの上の、階数を示すあの数字を、じっと見上げるのだ。

考えてみれば、これはかなり奇妙な行動だ。数字が「3」から「4」に変わったところで、人生に何の得もない。次に何階で降りるかも、僕らはとっくに知っている。それでも僕らは、まるでそこに世界の秘密が書いてあるかのように、天井の隅を凝視する。手元のスマホをいじり、床のタイルの模様を数え、意味もなく咳払いをして、上着のボタンを直したりする。要するに僕らは、目の前に確かにいる「人間」を、全力で「いないこと」にしようとしている。世界一狭い密室で、世界一丁寧な無視を交わし合っているのである。

しかも、この行動は世界中どこでも変わらない。東京でもニューヨークでもパリでも、エレベーターに乗り込んだ人はほぼ全員、同じように天井を見上げる。誰かに教わったわけでもないのに、僕らはこの「作法」を完璧に身につけている。まるで全人類が、こっそり同じマニュアルを配られていたかのように。いったい、いつ、誰が、この奇妙なダンスの振り付けを決めたのだろう。

■ それは「冷たさ」ではなく、発明された「優しさ」だった

この奇妙な儀式に、ちゃんと名前をつけた人がいる。アーヴィング・ゴッフマンというカナダ生まれの社会学者だ。彼は1960年代、人が街中で他人とすれ違うときの、ほんの一瞬のふるまいを顕微鏡のように観察した。そして気づく。僕らはすれ違う相手をチラッと見て、存在は認めつつも、すぐに視線を外している、と。ジロジロ見つめるのでもなく、完全に無視するのでもない。彼はこれを「儀礼的無関心(civil inattention)」と名づけた。

これは冷たさの表れに見えて、実は正反対だ。「あなたが誰なのか詮索しませんよ、あなたに敵意もありませんよ、どうぞ安心して」という、無言のメッセージなのだ。もし満員電車で、隣の人がずっとあなたの顔を見つめてきたらどうだろう。優しさどころか、恐怖でしかない。ゴッフマンは、この一瞬のふるまいを、夜道ですれ違う車が互いにヘッドライトを下げる動作にたとえた。相手を照らしすぎて眩ませないための、無言の気づかい。あれと同じことを、僕らは視線でやっているというわけだ。

つまり「見ないふり」は、見知らぬ他人同士が、狭い都市でぶつからずに暮らすために人類が発明した、きわめて高度な社交術なのである。田舎の一本道で人とすれ違えば、挨拶のひとつもする。でも渋谷のスクランブル交差点で、すれ違う何千人全員に挨拶していたら、僕らは一歩も進めない。都市という「知らない人だらけの場所」で正気を保つために、僕らは「見て、見ないふりをする」という絶妙な距離の取り方を編み出した。エレベーターで数字を見上げるあの動きは、冷淡さではなく、「僕はあなたを脅かしません」という、ささやかな握手のようなものだったのだ。

■ 壁に鏡を貼ったら、苦情がぴたりと止まった話

もうひとつ、面白い実話がある。20世紀の半ば、高層ビルが増えはじめた頃、エレベーターの「遅さ」への苦情が殺到した。技術者たちは頭を抱えた。速度を上げるには莫大な工事費がかかる。ところが、あるビルの管理者が、ほとんどタダの解決策を見つけた。エレベーターの壁に、大きな鏡を貼りつけたのだ。

すると、苦情がぴたりと止んだ。エレベーターが速くなったわけではない。待ち時間は一秒も変わっていない。ただ、人々が鏡に映る自分の身だしなみを確認したり、こっそり他人を観察したりするうちに、「退屈な待ち時間」が「気にならない時間」に変わったのだ。今もエレベーターに鏡が多いのは、この名残だと言われている。人間は、待たされること自体より、「何もすることがない」という手持ち無沙汰に耐えられない生き物なのだ。数字を見上げるのも、鏡をのぞくのも、根っこは同じ。僕らは、気まずさを埋める「小さな仕事」を、いつも探している。

■ スマホという、ポケットに入った「見ないふりマシン」

さて、時代は進んだ。今の僕らには、天井の数字も、壁の鏡も必要ない。最強の「儀礼的無関心マシン」が、全員のポケットに入っているからだ。スマートフォンである。エレベーターでも、レジの列でも、居酒屋で連れがトイレに立った数十秒でも、僕らはすかさず画面をのぞく。かつては数字を見上げるしかなかった気まずさを、僕らは無限のスクロールで完璧に塗りつぶせるようになった。

そしてAIは、その画面の向こうで、あなたが飽きないようにコンテンツをせっせと選び続けている。かつてゴッフマンが観察した「一瞬だけ見て、そっと視線を外す」という繊細な作法は、いまや「最初から一度も顔を上げない」という、もっと強力なバージョンに進化してしまった。それは驚くほど快適だ。気まずさはゼロになった。

けれど、正直に影も書いておこう。僕らはあまりに上手に「見ないふり」ができるようになったせいで、たまには顔を上げてもいい相手のことまで、まるごと視界から消しはじめているのかもしれない。隣で少し困っている人にも、扉を押さえて待っていてくれた人にも、気づかないくらいに。「儀礼的無関心」は、相手の存在をちゃんと認めたうえで、そっと視線を外すことだった。でも画面に沈み込んだ僕らは、そもそも相手が「存在すること」に気づいていない。便利さの代償として、僕らは「ちょっとした目配せ」という、都市生活のいちばん小さな筋肉を、少しずつ使わなくなっている。

■ 顔を、また上げてもいい未来へ

でも、僕はここに希望を見ている。考えてみてほしい。僕らがスマホに逃げ込むのは、「気まずさを埋める作業」を機械に肩代わりしてほしいからだ。だとすれば、その作業こそAIがいちばん得意とすることではないか。退屈しのぎも、情報整理も、どうでもいい待ち時間の穴埋めも、機械が引き受けてくれるなら——僕らはようやく、うつむく理由を失うことになる。

かつて鏡が、退屈な待ち時間を「自分と向き合う時間」に変えたように。AIが僕らの手持ち無沙汰を引き取ってくれたとき、空いた視線の先に残るのは、案外、目の前にいる生身の誰かなのかもしれない。エレベーターは、ほんの十数秒の、世界一小さな劇場だ。そこで僕らはずっと「見ないふり」という礼儀を演じ続けてきた。次にあの箱に乗ったら、数字を見上げる代わりに、隣の人に軽く会釈してみる。それだけで、天井の数字より、ずっと面白い何かが始まるかもしれない。未来は、いつだって、少し顔を上げた先にある。

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