子どもに「虹は何色?」と聞けば、たいていの子は自信満々に「七色!」と答える。まるで九九のように、疑いようのない世界の法則として。大人もそうだ。虹の絵を描いてと言われれば、迷わず七本の帯を並べる。でも、次に本物の虹が出たら、一度だけ真剣に空を見上げてみてほしい。赤はどこで終わって、橙はどこから始まっているだろう?その「境界線」を、指でぴたりと差せるだろうか。
差せない。当たり前だ。空には、線なんて一本も引かれていないのだから。虹は、途切れなく色が溶け合っていく、なめらかなグラデーションだ。それなのに僕らは全員で示し合わせたように、「そこには七つの区切りがある」と信じ込んでいる。存在しない線を、みんなで一生懸命に見ている。これはちょっと、笑ってしまうくらい奇妙な話だと思う。世界でいちばん有名な自然現象について、人類はそろって同じ勘違いを共有しているのだ。
■ 「七色」を決めたのは、自然ではなく一人の天才だった
種明かしをすると、「虹は七色」と決めたのは、あのアイザック・ニュートンだ。三百年以上前、彼はプリズムに太陽光を通し、白い光がさまざまな色に分かれることを発見した。ここまでは正真正銘の科学だ。ところが「では何色に分けるか」という段になって、彼は少し不思議な理屈を持ち出した。
当時のヨーロッパでは、音楽のドレミファソラシが七音、天体も七つと、「七」という数字が宇宙の調和を表す神聖な数だと考えられていた。ニュートンは、光の世界もこの美しい秩序に従っているはずだと信じた。だから、本当はもっと曖昧だった色の境目に、わざわざ「藍(インディゴ)」を足してまで、無理やり七色に整えたのだ。今でも、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫と唱えてみて、「藍」と「紫」の違いをはっきり言える人は少ないだろう。それもそのはず、その一色は物理ではなく、天才の美意識が押し込んだ帳尻合わせなのだから。
つまり「七色」は、光が物理的に七つに割れているという事実ではない。一人の天才が「そうであってほしい」と願った、いわば信念の産物なのだ。実際、虹を二色や三色、あるいは六色と数える文化も世界にはある。日本語だってそうだ。信号は緑に光っているのに僕らは「青信号」と呼ぶし、青々とした葉、青りんご——本来は緑のものを、平気で青と呼ぶ。かつて日本語では青と緑を一つの色として扱っていた名残だ。色そのものは同じでも、どこに線を引き、どう名前をつけるかは、国や時代でまるで違う。ピアノの鍵盤は音を階段状にきっちり区切るけれど、ヴァイオリンの弦は指を滑らせれば音が途切れなく変わる。自然の虹はヴァイオリンなのに、僕らはニュートンにもらったピアノの鍵盤越しに、それを眺めているわけだ。
もっと言えば、色というもの自体が、空にあるのではなく僕らの頭の中で生まれている。人間の目の奥には、赤・緑・青にだけ強く反応する三種類のセンサー(錐体細胞と呼ばれる)しかない。たったこれだけの手がかりから、脳が差分を計算し、何百万通りもの色を”創り出して”いるのだ。夕焼けの赤も、新緑のみずみずしい緑も、もとをたどれば「光の波長」というそっけない数字にすぎない。それを鮮やかな色として感じ、名前をつけ、境目まで引いてしまうのは、外の世界の性質ではなく、僕らの内側の仕組みなのである。ニュートンが空に線を引く三百年も前から、僕らの脳は毎瞬、世界に勝手な線を引き続けていた。
■ 僕らの脳も、AIも、世界を「箱」に切り分けて生きてきた
でも、ニュートンだけを笑うことはできない。これは人間の頭が世界を理解するときの、根本的なクセそのものだからだ。連続的で果てしなくなめらかな現実を、そのまま丸ごと受け止めるには、僕らの脳はあまりに小さい。だから僕らは、あらゆるものに線を引き、名前をつけ、「箱」に分けて整理する。虹を七色に、人を職業や国籍に、一年を四季に、連続する時間を月曜と火曜に。区切ることで、初めて世界を手のひらに乗せて扱えるようになる。これは弱点ではなく、混沌の中を生き延びるために人類が磨き上げた知恵だった。
面白いのは、少し前までのAIも、まったく同じことをしていた点だ。「これは犬、これは猫」と、あらかじめ決められた箱のどれかに押し込むのが仕事だった。人間が用意した区切りを、ひたすら忠実になぞっていたのだ。ところが今のAIは、少し様子が違う。言葉や画像を、無数の目盛りを持つ広大な「意味の空間」の中の一点として捉える。犬と猫のあいだにある無限のグラデーション、赤でも橙でもない「あいだの色」を、箱に押し込めずに、そのまま座標として扱えるようになってきた。
身近な例で言えば、音楽の”おすすめ”がそうだ。ひと昔前は、ロック・ポップス・ジャズと、ジャンルという箱で仕分けるしかなかった。でも今のAIは、曲の手ざわりそのものを連続した空間の上に並べ、「ジャンルの名前はないけれど、あなたが好きなあの感じ」の一曲を、箱をまたいで拾い上げてくる。区切りではなく、あいだのニュアンスで世界を捉えているのだ。皮肉なことに、機械のほうが先に、僕らが引いた線の外側にある景色を見はじめているのかもしれない。
■ 線を消したその先に、もっと豊かな景色がある
もちろん影もある。AIが僕らの雑な区切りをそのまま学び、「この人はこういう箱の人間だ」という決めつけを、かえって固定してしまう危うさは、正直に見ておかなければならない。線引きの道具は、使い方を誤れば、人を型にはめて閉じ込める檻にもなる。
それでも僕が未来に希望を持つのは、AIがくれる最大の贈り物が、「線は、もともと無かった」という当たり前を思い出させてくれることだと思うからだ。あなたは七色でくくれる存在ではないし、僕もそうだ。人はもっと連続的で、境目のない、ひとつづきのグラデーションでできている。優しさと強さのあいだ、理系と文系のあいだ、大人と子どものあいだ——そのすべての「あいだ」を、箱に還元せずにまるごと見つめられる目を、僕らは今まさに手にしようとしている。
次に虹を見たら、もう一度だけ探してみてほしい。色と色を分ける、あの一本の線を。きっと見つからない。そして見つからないことこそが、いちばん心強い事実なのだ。世界は、僕らが持っている言葉よりも、ずっと豊かにできている。その豊かさを、僕らの代わりに狭めるのではなく、一緒に眺めてくれる相棒が、ようやく隣に現れた。未来は、線の向こうにあるのではない。線を消した、そのなめらかな先に広がっている。
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