朝の駅。エスカレーターに乗るとき、僕らは驚くほど従順だ。誰に言われたわけでもないのに、すっと片側に寄って、もう片側を”歩く人”のために空ける。もしうっかり真ん中に立ち止まろうものなら、背後から降ってくる無言の視線に射抜かれる。まるで小さな法律を破った犯罪者のように。
でも、考えてみてほしい。この「片側を空ける」というルール、いったい誰が決めたんだろう。国会で可決された覚えはない。教科書で習った記憶もない。それなのに、日本中の何千万人が、毎朝きちんと守っている。世界でいちばん行儀のいい、そして——じつは、いちばん非効率な約束事を。
■ 誰も決めていないのに、みんなが従う
エスカレーターが生まれたのは1890年代のこと。アメリカの発明家ジェシー・リノが遊園地の「乗って楽しむ坂道」として世に出した。当初これは移動手段ですらなく、コニーアイランドの遊具、つまりアトラクションだったのだ。人々は行列をなして、動く階段に「乗る」こと自体を面白がった。ちなみに「エスカレーター(escalator)」という言葉は、のちにライバル会社が「階段」を意味するラテン語 scala に、当時の花形機械だったエレベーター(elevator)の語尾を接ぎ木してこしらえた造語だという。要するに「動く階段」という、ずいぶん率直なネーミングである。
やがて都市の地下鉄に広まると、いつからか「急ぐ人は歩く、そうでない人は片側に寄る」という暗黙の作法が芽生えた。面白いのは、その”寄る側”が土地によって割れていること。東京では左に立ち、大阪では右に立つ。たった一段の上で、国がふたつに分かれている。誰も命じていないのに人々は整列し、しかも地域ごとに正反対の流儀を守り抜く。この健気さこそ、人間という生き物のいちばん愛らしい癖なのかもしれない。信号のない横断歩道で、なんとなく人の流れができるのと同じ。僕らは、明文化されていないルールを空気から読み取り、律儀に体で覚えてしまう生き物なのだ。
■ 「親切」が、渋滞をつくっていた
ここからが、ちょっとハッとする話だ。
2015年から翌年にかけて、ロンドンの地下鉄ホルボーン駅で、ある実験が行われた。運営会社が乗客にこう頼んだのだ——「今日は歩かないで。左右どちらの側にも、みんな立ち止まってください」と。長年の「片側は歩行者用」という美徳を、あえて捨ててみたのである。
結果は、多くの人の直感を裏切った。両側に立ち止まったほうが、同じ時間に運べる人数がぐっと増えたのだ。ある区間では、輸送人数が三割近くも伸びたという。
からくりはこうだ。背の高いエスカレーターでは、じつは歩いて上りたい人はそう多くない。すると「歩く側」はガラガラのまま、「立つ側」だけに長い列ができる。片側を”善意”で空ければ空けるほど、階段の半分が遊んでしまう。レジを二台開けているのに、みんなが律儀に片方だけへ並んでしまう光景を思い浮かべてほしい。空いているほうを「あれは急ぐ人用だから」と全員が遠慮した結果、行列だけが伸びていく。あれと、そっくり同じことが起きていたのだ。
一人ひとりの「お先にどうぞ」という親切が、全体としては大きな渋滞を生んでいた。個人の美徳と、みんなの幸せは、いつも同じ方向を向くとはかぎらない。これはなかなか、人生の他の場面でも思い当たる真実ではないだろうか。よかれと思って選んだ気遣いが、まわりまわって、みんなを少しずつ待たせている。悪気はどこにもないのに、である。
■ AIは、見えない渋滞を「見える化」する
僕らの社会は、こういう「良かれと思って」の非効率で満ちている。譲り合ったつもりが道をふさぎ、気を利かせたつもりが列を伸ばす。厄介なのは、それが目に見えないことだ。誰も悪くないから、誰も直せない。
ここにAIの出番がある。人間ひとりの視野は、せいぜい自分の前後数メートル。だから僕らは、自分のすぐ隣で起きている「気遣いの渋滞」に、永遠に気づけない。ところがAIは、駅ひとつ、街ひとつぶんの人の流れを、まるで上空から見下ろすように一望できる。信号機の切り替えを最適化して街全体の渋滞をほどく試みや、ビルのエレベーターを「次にどの階で呼ばれそうか」を予測して配車する仕組みは、すでに現実に動きはじめている。数十階を上下する箱が、呼ばれる前から気を利かせて待っていてくれる——あれも、人間には見通せない流れをAIが読んだ結果だ。
人間の目には「善意の作法」にしか見えなかったものの裏側で、AIはそっと「本当はこう並んだほうが、みんな早いですよ」と教えてくれる。それは僕らを叱るためではない。僕らが本当は何を望んでいたのかを、律儀に数えて、そっと思い出させてくれる相棒のような存在だ。
もちろん、影もある。すべてを効率で測る社会は、どこか冷たい。「お先にどうぞ」の一瞬の会釈すら”無駄”と切り捨てられ、一秒でも速くと急かされ続けたら、僕らはずいぶん息苦しい街に住むことになるだろう。効率とは、突き詰めれば「もっと速く」の別名だ。そして最適化は、いつだって行きすぎる危険をはらんでいる。だから大事なのは、AIに何を任せ、何を人間の手もとに残すのか、という線の引き方なのだと思う。
■ 隣に立つ、という優しさ
でも、僕はこう思う。AIが非効率を引き受けてくれるほど、人間の「譲り合い」は、もっと本当に必要な場所へ回せるようになる、と。
考えてみれば、ホルボーンの実験が教えてくれたのは、案外あたたかい結論だった。いちばん多くの人を運んだのは、猛然と駆け上がる人ではなく、隣どうし、肩を並べて静かに立っていた人たちだったのだ。急がず、追い越さず、ただ同じ段に並んで、同じ速さで上へ運ばれていく。それは「譲る」の一歩先にある、「並ぶ」という優しさだ。
誰が決めたわけでもないルールに、僕らは今日も従っている。裏を返せば、僕らは新しい約束事を体で覚えるのが、とびきり得意な生き物だということだ。ならばいつか、誰が決めたわけでもない新しい優しさに、同じ健気さで乗り換えることだって、きっとできるはずだ。次にエスカレーターに乗るとき、もし隣の段が空いていたら、そっと並んで立ってみてほしい。あなたの半歩の隣に、見知らぬ誰かの居場所ができる。上りきる頃には、街はほんの少しだけ、みんなにとって速くなっている。未来は、そういう小さな並び方の積み重ねの先に、ちゃんと待っている。
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