「明日も今日の続き」という優しい錯覚——35年ローンを組む僕らが、未来にかけ忘れている保険の話

僕らは、35年の住宅ローンを平気で組む。すごいことだと思う。だって35年前、スマートフォンはこの世に存在しなかった。インターネットも、ほとんどの家になかった。それなのに僕らは、35年後も「会社」があり、「給料」があり、「今の働き方」が続いている前提で、人生最大の買い物にサインする。

未来は変わると、頭ではわかっている。それなのに、自分の人生設計だけは「今の常識」の上に建てる。この奇妙なねじれには、ちゃんと名前がある。「常識継続バイアス」——社会の常識はいずれ変わると理解しながら、自分の人生では現在の常識が続くと仮定してしまう、人類共通の心のクセだ。

■ 「絶対の常識」たちの、にぎやかなお墓

歴史は、死んだ常識の博物館だ。「地球は宇宙の中心である」。かつてこれを疑うことは、命がけだった。「王が国を治めるのは当然」「土地の値段は絶対に下がらない」——1980年代の日本では、最後のひとつは科学法則なみの扱いを受けていた。バブル崩壊は、その”法則”を一瞬で骨董品に変えた。

企業も同じだ。コダックは写真フィルムの帝国だった。ノキアは携帯電話の王者だった。「あの大企業だから安泰」と誰もが思っていた。会社の寿命は、僕らの直感よりずっと短い。そして「人間だけが知的活動を行える」——ほんの数年前まで、これは疑うことすら思いつかない常識だった。いま、多くの知的タスクでAIが人間に並び、追い越し始めている。歴代の「絶対」たちは、こうして次々と、歴史の教科書のなかで静かに眠りにつく。

面白いのは、当時の人々も「常識は変わるものだ」と知っていたことだ。知っていたのに、自分の人生設計では「変わらない」ほうに全額を賭けていた。永遠ではないと知りながら、永遠に続くかのように生きる。僕らは今日も、まったく同じことをしている。

■ 心のクセは、確率の計算が苦手

このバイアスは、確率の感覚にも顔を出す。飛行機事故と自動車事故、直感的に怖いのはどちらだろう。多くの人は飛行機と答える。でも移動距離あたりの死亡率は、自動車のほうがはるかに高い。ニュースで大きく報じられるものを、脳は「起こりやすいもの」と勘違いする。

「人はいつか死ぬ」と誰もが知っているのに、「自分はまだ先だ」と無意識に思っているのも同じ構造だ。脳は統計より物語が好きで、変化より継続を信じたがる。責められない。サバンナで暮らした祖先にとって、「明日も今日と同じ」という仮定は、たいてい正しかったのだから。脳のこの設計は、変化がゆっくりだった時代の最適化なのだ。

このクセは、人生の節目のあちこちに潜んでいる。「良い大学へ行けば安泰」という成功モデルを、僕らはどこかでまだ信じている。大学の価値が消えるわけではない。ただ、AIを使いこなす力や学び続ける力のほうが学歴より雄弁になる時代に、「学歴だけで人生が決まる」という前提のほうは、静かに賞味期限を迎えつつある。「民主主義は政治の完成形」という感覚もそうだ。王政、貴族政治、帝国、民主主義——政治の仕組みは何度も衣替えをしてきた。AIが政策立案を手伝う時代が来れば、いまの形がまた進化しないと考えるほうが、歴史的にはむしろ不自然なのだ。

問題は、いま僕らが、人類史上もっとも変化の速い時代にその脳を持ち込んでいることだ。

■ 「自分の仕事だけは例外」——AI時代の最前列で

そして現代版の常識継続バイアスの主戦場が、AIと仕事だ。多くの人が「AIで仕事は変わる」と認める。そして同時に「まあ、自分の仕事は大丈夫だろう」と考える。産業革命のとき、馬車職人も電話交換手も活版印刷工も、きっと同じことを思っていた。

AI革命が過去の革命と違うのは、置き換わるのが筋力でも手先でもなく、「知能」そのものだという点だ。銀行員、会計士、弁護士、医師——「絶対になくならない」とされてきた職業の中身が、タスク単位で静かに組み替えられ始めている。「安定した職業リスト」という地図そのものが、書き換わろうとしている。

ここで暗い話をしたいわけじゃない。むしろ逆だ。歴史を見れば、常識の崩壊はいつも、次の時代の入り口だった。天動説が倒れて科学が生まれた。身分制が崩れて、生まれではなく選択で人生を決められる時代が来た。「働かないと生きていけない」という農業革命以来の大前提すら、AIが生産の中心を担う時代には書き換わるかもしれない。それは「仕事を失う」物語ではなく、「生きるために働く」から「生きたいように生きる」への、人類のアップデートの物語になり得る。

■ 期限切れの地図を、僕らはもう一度描ける

もちろん、このバイアスにも言い分はある。すべてを疑って生きたら、心が持たない。「明日も今日の続き」という仮定は、僕らの心を守る毛布でもあるのだ。だから全部を捨てる必要はない。

必要なのは、たったひとつの問いを、ポケットに入れておくことだ。「自分が無意識に前提にしている常識は、本当に未来にも通用するだろうか?」

この問いには、お金も特別な才能もいらない。通勤電車のなかで、ふと考えてみるだけでいい。自分の職業。自分の収入源。自分の会社。自分の国の制度。そのうちのどれかひとつでも「変わるとしたら?」と想像してみた人と、一度も想像しなかった人。十年後に立っている場所は、この小さな習慣の差で、驚くほど変わる。歴史上の大きな変化で傷ついたのは、変化そのものに負けた人というより、変化を「考えないことにしていた」人だったのだから。

未来への最大の備えは、未来を正確に予測することではない。「常識が変わること」を前提に考えられる人にとって、変化は脅威ではなく追い風になる。地図が期限切れなら、それは迷子の始まりではなく、新しい地図を最初に描ける者の特権だ。

35年後、僕らはきっと今の常識のいくつかを、微笑ましく思い出す。「あの頃は、人間だけが働くものだと思ってたんだよね」「学歴で人生が決まるって、本気で信じてたんだよ」と。まるで僕らが今、「土地は絶対に値上がりする」と信じていた時代を懐かしむように。その未来の食卓で笑っているのは、常識の崩壊に怯えた人ではなく、崩壊の向こう側を最初に楽しみにできた人だと、僕は思う。

シンギュラリティとは、常識の賞味期限が一斉に切れる日のことかもしれない。だったら僕らは今夜、新しい地図の一枚目を、わくわくしながら広げればいい。

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