先日、友人がスマホでAIに絵を描かせて見せてくれた。数秒で立ちあらわれた、雨あがりの夕暮れの街。「すごいね」と僕が言うと、隣にいた別の友人がふっと鼻で笑った。「でもこれ、しょせん過去の絵の寄せ集めでしょ。本当の創造じゃないよ」。
僕はその言葉に、なぜか少しだけ笑ってしまった。まったく同じ議論が、いまから約180年前、一人の女性と、彼女が幾帳面に書き込んだ手帳の上で、すでに交わされていたからだ。しかもその女性は、あの放蕩詩人バイロンの、ひとり娘だった。
■ 「詩を書く機械」を夢見た、詩人の娘
エイダ・ラブレス。1815年生まれの彼女は、生まれてわずか一ヶ月ほどで父バイロンと引き離された。母は、娘が父ゆずりの「詩人の狂気」に染まることを恐れ、あえて数学と論理を家庭教師つきで徹底的に叩き込んだ。詩から遠ざけ、地に足のついた人間に育てるための数学だった。ところがエイダの中で、その二つは反発するどころか、静かに溶けあってしまう。彼女は少女時代、蒸気機関で空を飛ぶ機械を真剣に設計しようとし、それを「フライオロジー(飛行学)」と名づけて母に手紙を書いている。数式の向こうに、いつも彼女は情景を見ていた。長じて彼女は、自分の学問をこう呼ぶようになる。「poetical science(詩的な科学)」と。詩と科学は敵同士だと決めつけているのは、じつは僕らの方なのかもしれない。
彼女が出会ったのが、チャールズ・バベッジという発明家が構想した「解析機関」―― 歯車と蒸気で動く、人類初のプログラム可能な計算機の設計図だった。まだ一台も完成していない、紙の上だけの夢の機械だ。
ここで一つ、当時の人々を驚かせた仕掛けを紹介したい。この機械は「パンチカード」、つまり穴の開いた厚紙で命令を受けとる。実はこの仕組み、計算機の発明ではない。もとは織物の機械、ジャカード織機のものだ。穴の位置で糸の上げ下げを指示し、複雑な花模様を自動で織りあげる――その「模様を織るカード」を、バベッジは「数を織るカード」に置きかえたのである。エイダはこの類似に、詩人の目でハッと気づいて書いた。「解析機関は、ジャカード織機が花や葉を織るように、代数の模様を織りあげる」と。
■ 「機械は何も生み出さない」――最初の論争
1843年、エイダはこの機械を紹介したイタリア人技師の論文を英語に翻訳し、そこに原文の倍以上もある膨大な注釈をつけ足した。訳者のはずが、いつのまにか主役になっていたのだ。その中の「注釈G」に、彼女はある数列を機械に計算させるための手順を、一歩ずつ書き下した。これが世界初とされるアルゴリズム――料理でいえば、材料の並べ方から火加減までを順序立てて記した「機械のためのレシピ」である。だから彼女は「世界最初のプログラマー」と呼ばれる。コンピューターが影も形もない、歯車と紙だけの世界で、である。
だが本当に非凡だったのは、その先の想像力だ。バベッジ本人でさえ、自分の機械を「速く正確な計算の道具」としか見ていなかった。ところがエイダは、そのはるか先を見た。もしこの機械が、数字だけでなく、音符や文字といった「あらゆる記号」を規則に従って扱えるのなら――たとえば和音の高さと長さを数に置きかえられるのなら――理論上、精巧で科学的な楽曲さえ自動で作曲できるはずだ、と書いたのだ。まだ電気もエレクトロニクスもない、真鍮の歯車がカタカタ回るだけの時代に、である。発明者よりも、詩人の娘の方が、機械の未来を遠くまで見ていた。
同時に彼女は、こうも釘を刺した。「解析機関は、何も新しく生み出すわけではない。私たちが命じることを、こなすだけだ」。のちに「ラブレスの反論」と呼ばれるこの一文こそ、冒頭の僕の友人がつぶやいた「しょせん寄せ集めでしょ」の、180年前の姿である。機械は本当に創造できるのか。人間は、この問いを二世紀ちかく手放せずにいる。
■ 100年後の返事と、いま起きていること
エイダのこの反論に、100年の時をこえて正面から返事をした人物がいる。計算機科学の父、アラン・チューリングだ。彼は1950年の有名な論文で、「ラブレス夫人の異議」をわざわざ名指しで取りあげた。そしてこう問い返す。たしかに機械は、命じられたこと以上はしないのかもしれない。だが人間だって、生まれてから読み、聞き、学んだことの膨大な組みあわせから、新しさを生みだしているのではないか。ならば「命じられたことをこなすだけ」と「創造」の境目は、いったいどこに引けるのか、と。エイダが投げた小さな石が、一世紀後に、思考の本質をめぐる大きな波紋になったのだ。
そして現代。エイダが夢想した「音符を扱う機械」は、いまや本当に曲を書き、絵を描き、詩をつむいでいる。冒頭の、数秒で街を描いたあのアプリだ。彼女の予言は、ほぼ文字どおり回収された。残ったのは、彼女自身が同じ手帳に書きつけた、あの反論の方だけ――「これは本当の創造なのか」という、消えないさざなみである。
■ 「詩的な科学」が、僕らに返してくれるもの
影の部分を、目をそらさずに書いておく。創造が自動化されれば、絵で、文章で、音楽で暮らしを立ててきた人たちの足元は、確かに揺れる。「自分にしか描けないもの」という誇りが、ゆらぐ夜もあるだろう。かつて写真が発明されたとき、肖像画家たちが同じ不安に震えたように。それは軽々しく「大丈夫」と言える話ではない。
けれど、と僕は思う。エイダは詩と数学を、対立ではなく結婚として生きた人だった。彼女にとって創造とは、天から一人だけに降ってくる稲妻ではなく、既にあるものを組みあわせ、そこに意味を織りこむ営み――まさに「模様を織る」ことだった。だとすれば、AIが差しだす無数の下絵は、僕らの創造性を奪うのではなく、むしろ「どんな模様を織りたいのか」という、いちばん人間らしい問いだけを、そっと手元に残してくれる。
考えてみれば、シンギュラリティに向かうこの時代そのものが、エイダの言う「poetical science」の壮大な実現なのかもしれない。冷たい論理と、あたたかな詩情が、もう一度ひとつになる場所。詩人の娘が180年前、手帳の余白にそっと書いた夢は、いま僕らの手のひらの上で、ようやく花を織りはじめている。過去の寄せ集め、けっこうではないか。人類の文化とは、そもそも壮大な「寄せ集め」の別名なのだから。そしてその糸を、次にどう織るかは――まだ、僕らに委ねられている。
コメントを残す