「暗記」という、たった一つの誤解——ソクラテスが「カンニング」と呼んだ発明と、AIが僕らに返してくれる「考える」時間

試験の前夜、僕らはいつも同じことをしている。「鳴くようウグイス平安京」と口のなかで転がし、元素記号の並びを呪文のように唱え、漢字の書き順を指でなぞる。頭という小さな部屋に、明日の朝までに荷物を詰め込めるだけ詰め込む。そして試験が終われば、その荷物のほとんどを、僕らは驚くほどきれいに忘れてしまう。

奇妙なのはここからだ。教室を一歩出れば、僕らはポケットに「世界中のことを覚えている板」を入れて歩いている。平安遷都の年も、元素周期表も、あらゆる漢字も、指一本で一秒後に出てくる。それなのに、試験中にその板を開けば「カンニング」と呼ばれ、人生から追放されかねない。覚える必要のなくなった時代に、僕らはまだ、覚えることを最大の美徳として子どもに課している。この巨大なちぐはぐを、今日は少しほどいてみたい。

■ 二千四百年前、「カンニング」を発明した男の話

実は「外部の道具に記憶を預けるのはズルだ」という感覚は、まったく新しいものではない。むしろ人類でいちばん古いクレームのひとつだ。

いまから約二千四百年前、哲学者プラトンが書き残した『パイドロス』という対話篇に、こんな神話が出てくる。エジプトの神テウトが、王タムスのもとへ「文字」という発明を持ってくる。テウトは胸を張る。「これで人々の記憶力は飛躍的に高まり、知恵が増します」。ところが王は渋い顔でこう返した。「いや逆だ。人は書いたものに頼るようになり、自分の頭で覚えようとしなくなる。彼らが得るのは知恵ではなく、知恵らしきものにすぎない」。

つまり文字とは、人類が最初に手にした「外付けの記憶装置」であり、当時の賢者にとっては、頭を使わなくする危険な「カンニング装置」だったのだ。ソクラテスは本気で、書くことが人間の心を弱らせると恐れていた。いまの僕らが、スマホやAIに対して抱く不安と、驚くほど同じ顔をして。

面白いのは、その心配を書き残すのに、プラトンが「文字」を使わざるを得なかったことだ。もし彼が師の言いつけを守って何も書かなければ、僕らはこの美しい警告を、二千四百年後に読むことすらできなかった。外付け記憶を恐れた人の言葉さえ、外付け記憶に預けられてはじめて、時を越えて僕らのもとへ届いた——この小さな皮肉のなかに、答えの半分がもう入っている気がする。

■ 記憶は、ずっと「外」へ引っ越し続けてきた

歴史を眺めると、人類はこの「外付け記憶」を、けっして手放さなかった。むしろ、せっせと引っ越しを重ねてきた。

粘土板に刻み、パピルスに書き、羊皮紙の本に綴じ、やがてグーテンベルクの活版印刷が同じ知識を何千冊もばらまいた。そのたびに、人々は「暗誦する力が衰える」と嘆いた。けれど実際に起きたのは、衰退ではなかった。頭という狭い部屋から重たい家具を運び出したおかげで、僕らはその空いたスペースで、前より自由に動きまわれるようになったのだ。

数学者は円周率を延々と暗記する代わりに、微分積分を考えられるようになった。医者はすべての薬の名を諳んじる代わりに、目の前の患者を診られるようになった。記憶を外へ預けるたびに、人間は「覚える人」から「考える人」へと、少しずつ職業を変えてきた。文字は、王タムスが恐れたように人を愚かにはしなかった。むしろ、図書館という名の巨大な外部記憶を土台にして、科学も文学も生まれたのだ。

もっと身近な例もある。ほんの数十年前、学校の教室では「電卓を使うと計算力が落ちる」という論争が本気で戦わされていた。けれど電卓が当たり前になったいま、子どもたちが失ったのは、暗算に費やしていた時間だけだった。その分、彼らはもっと大きな数の意味や、統計というものの見方に手を伸ばせるようになった。道具に計算を預けた手が空いたぶん、人はいつも、一段高いところにある問いへ登っていく。歴史は、そのくり返しでできている。

■ AIは、記憶にとって「最後の引っ越し」かもしれない

そしていま、AIという新しい引っ越しトラックが玄関先に停まっている。これまでの道具と少しだけ毛色が違うのは、預けられるのが「事実」だけではない、という点だ。検索は「どこに書いてあるか」を教えてくれたが、AIは集めてきた断片をつなぎ、要約し、たたき台まで差し出してくる。記憶だけでなく、思い出して組み立てる作業まで、外へ引っ越せる時代に入りつつある。

もちろん、影がないわけではない。心理学者ベッツィ・スパロウたちが二〇一一年に報告した実験では、「あとで検索できる」と思った人は、情報そのものよりも「どこで探せるか」ばかりを覚えていた。俗に「グーグル効果」やデジタル健忘症と呼ばれる現象だ。何もかもを機械に預けきれば、僕らの思考は薄っぺらくなる——その心配は、もっともだ。

けれど思い出してほしい。同じ心配は、文字にも、印刷にも、電卓にも向けられ、そのたびに人類は使いこなす作法を見つけてきた。道具が賢くなるほど、こちらも「何を預け、何を自分の内に残すか」を選ぶ目が問われる。それは失うことではなく、成熟することだ。

■ 覚えなくていい世界で、僕らははじめて「考える」

ここで、冒頭のちぐはぐに戻ろう。試験前夜に必死で覚えたことの大半を、僕らはなぜ平気で忘れられるのか。答えはたぶん、単純だ。暗記そのものは、はじめから目的ではなかったからだ。年号も元素も、それを手がかりに世界を面白がるための、入口の鍵にすぎなかった。

王タムスが恐れた文字は、人から記憶を奪う代わりに、考える時間を返してくれた。AIも、たぶん同じことをする。「鳴くようウグイス」を覚える夜を子どもから取り上げる代わりに、「どうして人はわざわざ都を移したんだろう」と問う時間を、そっと手渡してくれる。年号を正確に言えることと、その時代を生きた人の気持ちを想像できることは、まったく別の才能だ。そして機械にうまく預けられるのは、いつだって前者のほうなのだ。

覚えることに使っていたエネルギーを、驚くことや、つなげることや、まだ誰も出していない答えを探すことに回せる世界。それは記憶を失った世界ではなく、記憶という重い荷物を外に預けて、ようやく身軽に「考える」を始められる世界だ。ソクラテスが心配した二千四百年後の未来で、僕らはやっと、覚えるための人生から、考えるための人生へと引っ越そうとしている。覚えるための人生は、ここで終わらない。ただ、その隣に、考えるための人生が並んで立ちはじめる。荷ほどきの音は、思ったよりずっと、軽やかだ。

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