「1.5倍速」という名の、現代人だけがかかっている魔法——”速く消費する”僕らが、AIの時代に思い出す「ゆっくり」という贅沢

僕らは、いつから「物語」を早送りするようになったんだろう。

映画は1.5倍速で観て、オープニングは飛ばす。ドラマは「あらすじ動画」で済ませ、ポッドキャストは2倍速、会議の録画は等倍なんてとんでもない。楽しみにしていたはずの作品を、まるで急いで終わらせたい仕事のように処理していく。お金を払って手に入れたコンテンツから、一秒でも速く「解放」されたがっている。よく考えると、これはかなり奇妙な光景だ。僕らは、楽しむために買ったものを、楽しむ時間を削ることに必死になっている。

レストランで、大枚をはたいてコース料理を注文したのに、料理が運ばれてくるなり全部ミキサーにかけて一気飲みしている——倍速視聴を料理にたとえると、たぶんそんな感じになる。味わうために来たはずなのに、「早く食べ終えて次の店に行かなきゃ」と焦っている。しかも僕らは、そのことにほとんど罪悪感を覚えない。それどころか「効率的に消費できた」と、どこか誇らしくすらある。この奇妙な誇らしさは、いったいどこから来たんだろう。

■ 実は「速く読む」は、人類の得意技だった

でも、これは今に始まった話じゃない。人類はずっと、「情報を速く受け取る技術」を発明し続けてきた。その最初の大きな飛躍が、実は「黙って読む」ことだった、と言ったら驚くだろうか。

いまから約1600年前、キリスト教の思想家アウグスティヌスは、自分の著書『告白』のなかで、ある光景に本気で驚いている。師であるアンブロシウスという人物が、本を「声に出さずに」読んでいたのだ。唇も動かさず、ただ目だけで文字を追っている。アウグスティヌスは「いったい何をしているのだろう」と不思議でたまらなかった。

現代の僕らからすると、意味がわからない。黙読なんて当たり前じゃないか、と。でも当時、「読む」とは「音読する」ことだった。文字は、声に変換してはじめて意味になるものだったのだ。文章を、いわば口の中で一度「調理」してから味わっていた。それを、目で見ただけで直接理解してしまう——それは、料理を口に入れる前に味がわかってしまう魔法のように見えたのだろう。

つまり黙読とは、人類が手に入れた最初の「倍速再生」だった。声に出すという手間を省き、情報を頭に流し込むスピードを一気に上げたのだ。そこから「ざっと読む(スキミング)」が生まれ、「要点だけ拾う」が生まれ、そしてついに僕らは、動画のスライダーを右にドラッグするところまで来た。速さへの欲望は、人類のとても古い癖なのだ。

面白いのは、この「速く読める技術」が広まるたびに、人類が手に入れられる知識の量が爆発的に増えてきたということだ。声に出さなくてよくなったから、人は一日に何十冊もの本に目を通せるようになった。図書館が生まれ、学問が育ち、知識が積み上がっていった。速さは、決して悪者ではない。むしろ僕らの文明そのものが、「いかに速く多くを取り込むか」という工夫の積み重ねでできている。倍速視聴を「けしからん」と眉をひそめる前に、まずそのことを認めておきたい。僕らは、そういう生き物なのだ。

■ AIは「究極の早送りボタン」になった

そして今、その癖を極限まで叶えてくれる存在が現れた。AIだ。

2時間の映画を、3行に要約してくれる。分厚い本を、5分で「だいたいわかった」気にさせてくれる。「TL;DR(長すぎ、読んでない)」という言葉が示す通り、僕らは”要約された世界”に住み始めている。AIは、人類史上もっとも高性能な早送りボタンなのだ。

なぜ僕らはここまで急ぐのか。答えはシンプルで、「多すぎる」からだ。観たい映画も、読みたい本も、聴きたい曲も、一生かかっても消費しきれないほど目の前に積み上がっている。豊かさが、逆に「時間が足りない」という飢餓感を生んでしまった。バイキング形式の食べ放題で、あれもこれもと皿に取るうちに、一皿もじっくり味わえなくなる——あの感覚に、僕らは24時間ひたされている。

しかも、まわりのみんなが同じ作品の話をしている。「あれ観た?」に乗り遅れたくない。だから「体験する」より先に「知っておく」ことが優先される。物語は、味わうものから、話題についていくための”情報”に変わってしまった。アウグスティヌスの時代、一冊の本を読み終えるのに何日もかかったことを思えば、僕らはとんでもない速度で世界中の物語を平らげている。なのに、なぜだろう、ちっとも満たされた気がしない。皿の上のものが増えるほど、どれも味がしなくなっていく。

■ 影——「情報」は増えても、「体験」は残らない

ここで正直に、小さな影にも触れておきたい。

速く消費した物語は、不思議なほど記憶に残らない。あらすじは言えても、あの静かなシーンで胸が締めつけられた感覚は、倍速の中では生まれない。すべてを「情報」として処理していくと、いつのまにか「体験」が手からこぼれ落ちていく。詩を要約してしまったら、それはもう詩ではない。速さは、たまに、いちばん大切なものを置き去りにする。

■ 速さを手放したとき、「ゆっくり」が贅沢になる

でも、ここからが希望の話だ。

考えてみてほしい。僕らが早送りしていた本当の理由は、「全部に追いつかなきゃ」という焦りだった。ならば、その”追いつく”作業こそ、AIに任せてしまえばいい。世の中の膨大な情報を、AIが読み、選び、整理してくれる。「あなたが本当に心を動かされるのは、この3本です」と、そっと差し出してくれる。

そのとき、はじめて僕らは自由になる。すべてを1.5倍速で追いかける必要はもう、ない。選び抜かれた数少ない作品を、等倍で——いや、0.5倍速でもいい——ゆっくり味わえばいい。同じ本を二度、三度読み返してもいい。エンドロールが流れきるまで、余韻に浸っていてもいい。「全部を知らなきゃ」という重たいリュックを、AIがそっと肩から下ろしてくれる。残るのは、本当に自分が心を寄せたい、ほんの数編の物語だけだ。それは、貧しくなることじゃない。むしろ、一皿の料理をようやく本気で味わえるようになる、ということだ。

歴史をふり返れば、面白いことに気づく。かつて贅沢とは「速さ」だった。速い馬、速い車、速い通信。でもこれからは、逆になる。速さは自動化され、当たり前になり、そして「ゆっくり」こそが、人間だけに許された贅沢になっていく。

黙読を発明した僕らは、次に「あえて声に出して読む」ことの豊かさを知った。倍速を発明した僕らも、きっと同じ場所にたどり着く。急がなくていい未来が、静かに近づいている。そのとき僕らはようやく、大好きな物語の前で、深く息を吸って、こう言えるはずだ。「さあ、ゆっくり味わおう」と。

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