「自販機」は、二千年前からそこに立っている——僕らが「便利」と呼んで、見なくなった最初のロボットの話

深夜二時、僕は駅前の自動販売機の前に立っている。小銭を入れ、光るボタンを押し、落ちてきた温かい缶コーヒーを受け取る。誰にも会わず、一言も交わさず、頭も下げない。もし人間の店員が真夜中にわざわざ温かい飲み物を差し出してくれたら、僕はきっと「ありがとうございます」と頭を下げるだろう。でも自販機には言わない。僕はあの四角い箱を、ロボットではなく、街灯や電柱と同じ「風景」だと思っているからだ。

ここに、現代のいちばん奇妙なことが隠れている。僕らは「ロボットが来る未来」を怖がったり、待ち望んだりしている。ところが実際には、もう何十年も、無数の従順なロボットにぐるりと囲まれて暮らしている。ただ、あまりに便利で、あまりに静かなので、それをロボットだと気づかなくなっただけなのだ。僕らは未来を空の彼方に探しながら、すでに未来のまん中に立って、その未来に缶コーヒーを買ってもらっている。

■ 世界で最初の「自販機」は、神殿の中にあった

その一番目の一台は、驚くほど昔に生まれている。西暦一世紀、エジプトのアレクサンドリアに、ヘロンという発明家がいた。今からおよそ二千年前の人だ。彼が設計図を残したのは、コインを入れると聖水がちょろりと出てくる装置だった。

仕組みを聞くと、思わず笑ってしまうほど素朴だ。投入口に硬貨を落とすと、その硬貨の「重さ」で内部の小さな天秤がかたむく。天秤の先には栓がつながっていて、天秤がかたむいた分だけ栓が持ち上がり、下の口から水が流れ出す。やがてコインが天秤から滑り落ちると、天秤は元の位置に戻り、栓が穴をふさいで、水はぴたりと止まる。電気もコンピュータもいらない。ただ「重さ」という物理の理屈だけで、機械が人間の代わりに聖水を配ったのだ。

もっと面白いのは、これがおそらく「お金のごまかしを防ぐため」に作られたということだ。神殿では参拝者が聖水を受け取っていたが、少ししか払わずにたっぷり持っていく人が後を絶たなかったらしい。その人間くさいズルを、感情も忖度も持たない機械にまかせることで、公平に解決しようとした。二千年前、人類がいちばん最初に機械にさせた仕事は、実は「人間を疑わず、えこひいきもせず、誰にでも同じように応対すること」だったのかもしれない。僕はこの一点に、少しだけ胸を打たれる。冷たい機械の始まりが、実はとても人間的な願いから生まれていたのだから。

■ 日本は、世界でいちばん「ロボットと暮らす国」だ

ヘロンの遠い子孫たちは、いま日本の街角に、およそ四百万台も立っていると言われる。人口あたりの密度は世界でも群を抜く。山あいの無人駅にも、深夜の住宅街の角にも、あの箱は明かりを灯して黙って立っている。温かい飲み物と冷たい飲み物を同じ箱で出し分け、傘を売り、だしを売り、ときにラーメンまで出す。それでも僕らは「便利だね」の一言で片づけて、もう驚かない。よく考えれば、現金をたっぷり抱えた無人の機械が、夜通し屋外に立ちっぱなしで壊されもせず盗まれもしない——これはこれで、社会がそっと差し出している静かな信頼の証でもある。ヘロンが機械に託した「公平さ」への願いが、二千年かけて街全体に広がったようにも見えてくる。

考えてみれば、これは人類の適応力のすごさでもある。新しい技術は、登場した瞬間には「魔法」か「脅威」に見える。電話が家にやってきたとき、人は箱から声が聞こえることを不気味がった。エレベーターも、ATMも、最初はみんな少し怖かった。ところが人は、あっという間にそれを日常に溶かし込み、空気のように扱いはじめる。自販機がただの風景になったのとまったく同じように、僕らは新しい機械を「怖いもの」から「いて当たり前のもの」へと、静かに翻訳していくのだ。この「馴れる力」こそ、人類が道具と共に生きのびてきた本当の秘密だと僕は思う。

■ 黙っていた箱が、目と耳を持ちはじめる

そしていま、その静かな箱が変わろうとしている。カメラで目の前に立つ人をそっと見て、天気や時間帯や気温から「今なら温かいスープが売れそうだ」と自分で判断し、並べる商品を入れ替える自販機。話しかけると答え、キャッシュレスで見送ってくれる自販機。二千年間ただ黙って立っていたヘロンの機械が、ついに周りの世界を「理解」しはじめているのだ。

人工知能というと、僕らはつい巨大な研究所や、賢すぎる会話ロボットを思い浮かべる。けれど本当は、AIはいちばん地味な箱の中や、いちばん見慣れた道具の内側にこそ、いちばん自然に染み込んでいく。改札も、エアコンも、街の信号も、気づかないうちに少しずつ「考える」ようになる。未来は華々しく到来するのではなく、風景の顔をして、静かに僕らの隣に座るのだ。

もちろん、影がないわけではない。黙って僕らを見つめる機械が街じゅうに増えていくことを、少し薄気味悪いと感じる人もいるだろう。便利さと引き換えに、見られている感覚が増えたり、人と言葉を交わす機会がまた一つ減ったりする心配もある。その不安は正直なもので、目をそらしてはいけない大切な問いでもある。

■ 機械が本当にくれていたのは「時間」だった

それでも、二千年という長い付き合いを思い返すと、僕はこう思うのだ。ヘロンの聖水機から深夜のコーヒーまで、機械が僕らにずっと渡してきた本当の贈り物は、水でもコーヒーでもなかった。それは「時間」と「手間」だ。かつては誰かに頼み、列に並び、待ち、やりとりをしなければ手に入らなかった小さな用事を、機械が代わりに肩代わりしてくれる。そうして浮いた時間と、使わずに済んだ気力を、僕らは本当に大切な相手や、まだ見ぬ何かのために使えるようになる。夜通し働いてくれる箱があるおかげで、誰かが真夜中に無理をして店番をしなくてよくなる、という優しさだってそこにはある。便利さの正体は、突き詰めれば「誰かの時間を、別の誰かの自由に変換する仕組み」なのだ。

シンギュラリティとは、機械が人間を追い越して支配する物語ではないと僕は思う。それはむしろ、機械が自販機のように「静かで、当たり前で、見えない」ほど僕らの暮らしに馴染んで、その分だけ僕らが自分自身の時間と心を取り戻していく物語だ。奪われるのではなく、返してもらうための物語。深夜二時、温かい缶を両手で包みながら、僕は二千年前の発明家に小さくうなずく。そして次にこの箱の前を通るときには、僕はきっと、ほんの少しだけ本気で、「ありがとう」と言いたくなっているはずなのだ。

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