僕のスマホには、四千枚のスクリーンショットが眠っている。
気になった記事、あとで調べたい言葉、保存した割引クーポン、どこかで見かけた名言、乗り換え案内の時刻表、友だちに勧められた映画のタイトル。そのどれもが「後で見返すため」に撮られた。けれど正直に白状すると、そのうち本当に見返したのは、おそらく十枚もない。残りの三千九百九十枚は、未来の自分に宛てて書いたのに、ついに開封されなかった絵葉書のようなものだ。アルバムを開くたび、僕は自分がいつ、何のためにこれを撮ったのかさえ思い出せない。
不思議な話だ。僕らは「忘れないため」にスクショを撮る。ところが撮った瞬間、脳はほっと安心して、むしろ中身をきれいに手放してしまう。保存したから、もう覚えなくていい。——この奇妙な取引を、僕らは一日に何度もくり返している。スクショとは、記憶の外注であると同時に、堂々と忘れるための免罪符でもあるのだ。心理学には「グーグル効果」という言葉まである。いつでも調べられると分かっているものを、人の脳はわざわざ覚えようとしない、という現象だ。撮ったその瞬間、僕らの脳は小さくこう囁いている。「あとはよろしく」と。
■ 二千四百年前、神さまも同じことで悩んでいた
この「保存すると忘れる」という現象、実は人類はずいぶん昔から気づいていた。
古代ギリシャの哲学者プラトンが、こんな神話を書き残している。文字を発明した神テウトが、王さまのところへ自慢しにいく。「これで人間は何でも書き留められます。記憶力がうんと良くなりますよ」。ところが王さまは首を横に振った。「いや、逆だろう。書けるようになれば、人は中身を自分の中に覚えておこうとしなくなる。覚えているつもりで、実は紙に頼りきった、物忘れの達人になるだけだ」
つまり、文字は「記憶の薬」のふりをした「物忘れの薬」ではないか、という心配だ。二千四百年前の王さまが新発明の文字に抱いたこの不安は、そっくりそのまま、スクショを撮りまくる現代の僕らへの忠告に聞こえてくる。保存とは、安心して忘れるための儀式なのだ。
でも、ここで少しだけ王さまの肩を持ちたい。文字のおかげで、僕らは会ったこともない昔の人の考えを読める。プラトンのこの心配ごとを、二千四百年後の僕が知っているのも、彼が「書いて」くれたからだ。外に出した記憶は、確かに頭からは薄れる。けれど、頭ひとつぶんよりずっと大きな何かを、人類に残してきた。問題は、外に出すことそのものではなく、出したきり、二度と取り出せないことのほうにある。
■ そもそも、僕らの記憶はビデオじゃない
ここで少しだけ、科学の話をさせてほしい。難しくないので安心してほしい。
多くの人は、記憶をビデオ録画のようなものだと思っている。見たまま、聞いたままが、頭の中に正確に保存されている、と。ところが心理学の研究が明らかにしたのは、まったく逆の姿だった。人間の記憶は「録画」ではなく「再構成」なのだ。
思い出すたびに、僕らの脳はその場で記憶を組み立て直している。粘土で作った人形を、見るたびにいったん崩して、そのつど作り直しているようなものだ。だから思い出は少しずつ姿を変え、時には存在しなかった出来事まで足されてしまう。心理学者エリザベス・ロフタスは、大人に対して「幼い頃にショッピングモールで迷子になった」という、本当は一度も起きていない記憶を信じ込ませる実験に成功している。多くの人が、ありもしない迷子の日の心細さまで、生き生きと「思い出して」しまったのだ。記憶とは、それほどに柔らかく、頼りない。
だからこそ僕らはスクショを撮る。崩れていく粘土細工に、せめて一枚の写真を添えておこうとして。写真の中の文字や景色は、脳とちがって勝手に書き換わったりしない。それは心強いことだ。でもその一枚は、撮った端から、また別の引き出しの奥で眠ってしまう。正確な記憶を手に入れたはずなのに、今度はその在りかのほうを忘れてしまうのだ。
■ 四千枚の墓場に、司書がやってくる
さて、ここからが希望の話だ。
これまでスクショは「撮る」ことはできても「探す」ことがほぼできなかった。四千枚の中から「ほら、あの時の、あの店の、あの言葉」を見つけ出すのは、砂浜で特定の一粒を探すに等しい。撮った日付も、写っている文字も、手がかりにはならなかった。だから撮りっぱなしの墓場が、誰のスマホにも静かに広がっていった。
ところがAIは、この墓場を図書館に変えつつある。いまのAIは、画像の中の文字を読み、写っているものの意味まで理解する。「去年の夏に保存した、青い表紙の本のタイトル」とつぶやけば、四千枚の中から、そっと一枚を差し出してくれる。撮った自分すら忘れていた一枚を、だ。几帳面に整理しなくていい。ただ放り込んでおけば、意味を頼りに後から手が届く。
これはただ便利、という話にとどまらない。プラトンの王さまが恐れた「物忘れの薬」が、ようやく本物の「記憶の薬」に化ける瞬間かもしれないのだ。外に出して安心して忘れたはずの記憶に、いつでも手が届くようになる。開封されなかった四千枚の絵葉書に、ついに読み手が現れる。人類が文字を発明してからずっと抱えてきた「出したきり取り出せない」という宿題に、二千四百年越しの答えが出ようとしている。
■ 忘れていい、という自由
もちろん影もある。すべてが完璧に記録され、何ひとつ忘れられない未来は、少し息苦しい。忘れることは、人間にとって欠陥ではなく、過去の痛みをやわらげ、前を向くための大切な機能でもあるのだから。思い出せることと、思い出さずにいられること。そのどちらも、心の健康にはきっと要る。
けれど僕は、そこにこそ希望を見ている。思い出すことまでAIに任せられるなら、僕らはもう「忘れないため」に生きなくていい。何を自分の胸に刻み、何を外の司書に預けるかを、恐れずに選べるようになる。残しておきたいものはAIに託し、心はもっと身軽に、いま目の前の景色のほうを味わえばいい。記憶の番人を一人雇えるぶんだけ、僕らは今日という一日に手が空く。
未来の自分へ宛てた四千枚の絵葉書は、きっと無駄じゃなかった。いつかそれを、笑いながら一緒にめくってくれる相棒が、もう僕らのポケットの中で、静かに目を覚ましはじめている。だから今日も、僕は安心してスクショを撮る。——いつか、ちゃんと読み返される日を信じて。
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