僕は今朝、ひとり暮らしの部屋で、コンビニのおにぎりに向かって「いただきます」と言った。返事はない。おにぎりは何も答えないし、作った人の顔も知らない。よく考えると、これはかなり奇妙な行為だ。誰もいない台所で、ビニールに包まれた三角形に向かって、僕は律儀に頭を下げている。宛先不明のまま投函される、世界でいちばん短い感謝状。それが「いただきます」なのかもしれない。
しかも僕らは、それを一日に何度も、ほとんど無意識に繰り返す。牛丼屋のカウンターでも、デスクでパソコンを見ながらでも、とりあえず口が勝手に動く。宛先も確かめず、中身も書かず、それでも毎日せっせと投函し続ける感謝状——もしこれが郵便だったら、とっくに「宛先不明」の山になっているはずだ。
でも、ここで立ち止まってほしい。宛先が見えないからといって、その手紙が届いていないとは限らない。むしろ僕らは、宛先が見えないほど巨大な相手に向かって、毎日この五文字を唱えているのだ。
■ 「いただきます」は、もともと”崖っぷちの言葉”だった
この言葉の正体をたどると、思いのほか切実な場所にたどり着く。「頂く」とは本来、頭の上に高く掲げる、という意味の動作だった。山の「頂(いただき)」と同じ字を使うのは偶然ではない。目上の人から何かを受け取るとき、昔の人はそれを額の高さまで持ち上げ、恐れ多いという気持ちを体で示した。つまり「いただきます」は、はじめから「自分より上のものから、おそれながら受け取る」という姿勢の言葉なのだ。
では、何を受け取っているのか。答えは身も蓋もなく「命」である。ごはんの米粒も、味噌汁の中の小さな魚も、ついさっきまで生きていた。僕らは他者の命をいただかなければ、一日も生きられない。かわいがっていた生き物を食べるわけにはいかない、という後ろめたさと、それでも食べなければ生きられない、という事実。そのあいだで揺れる気持ちを、人はたった五文字に畳み込んだ。
ついでに言えば、食べ終わりの「ごちそうさま」も負けていない。漢字で書くと「御馳走様」。「馳走」とは、もともと馬を走らせてあちこち駆け回ること。客をもてなすために、食材を求めて走り回ってくれた人への「お疲れさまでした」が、あの一言の正体なのだ。食事をはさんだ二つの言葉は、どちらも「誰かが動いてくれたおかげ」を小さく刻印している。
これは精神論ではなく、生物学が淡々と語る事実でもある。「食物連鎖」という言葉を習ったのを覚えているだろうか。植物が太陽の光を食べ、虫が植物を食べ、鳥が虫を食べる。あの図の、いちばん上の矢印の先に、実は僕らがいる。かのダーウィンは、たくさんの生き物が互いに絡み合って支え合う様子を「もつれ合った土手(entangled bank)」と呼び、その複雑さに目を見張った。「いただきます」とは、そのもつれ合った鎖の末端に立つ者が、自分の背後に連なる無数の命へ送る、ささやかな会釈なのだ。
■ 鎖は、もう目では追えないほど長くなった
ところが現代、この鎖はとんでもない長さに伸びてしまった。朝のおにぎり一個の背後には、米を育てた農家、水路を管理する人、収穫機を作った工場の職人、海苔を養殖する漁師、塩を採る人、トラックの運転手、深夜に棚へ並べる店員——数えきれない「手」が連なっている。しかもその多くは、地球の反対側にいる見知らぬ誰かだ。経済学者はかつて、一本の鉛筆でさえ、世界中の誰ひとりとして作り方の全体を知らないと書いた。おにぎり一個もまた、誰も全貌を知らないほど巨大な共同作業の産物なのだ。
そして今、その鎖の結び目のあちこちに、人間ではないものが入り始めた。どの畑にいつ水をやるかを判断するAI、天候から収穫量を予測するアルゴリズム、物流倉庫で商品を仕分けるロボット。僕らの食卓は、気づかないうちに、人と機械と知能が織りなす巨大なネットワークの出口になっている。おにぎりに向かって頭を下げるとき、僕は実のところ、顔も持たない世界規模のシステムに向かって会釈しているのだ。宛先が見えないわけだ。相手が、大きくなりすぎたのだから。百年前なら、米をくれたお百姓さんの顔が浮かんだ。今は、その顔が何千人分にも、そして何台もの機械分にも散らばってしまって、もう一枚の絵には収まらない。
■ 便利さは、感謝を透明にしてしまう
ここに小さな影がある。鎖が長く、滑らかになるほど、その存在は透明になる。ボタンひとつで料理が届き、冷蔵庫が勝手に不足分を注文してくれる時代には、「誰かのおかげ」という感覚そのものが薄れていく。感謝というのは、どうやら不便さとセットで育つところがある。蛇口をひねれば水が出るのが当たり前になると、水のありがたさを忘れるように。何もかもが自動で満たされる世界では、「いただきます」はただの口癖、意味を失った音の連なりになりかねない。手を合わせるその二秒が、ただの発車の合図に成り下がってしまう——そんな未来も、たしかにありうる。
でも、僕はそこで未来を悲観しない。むしろ逆だと思っている。
■ だからこそ、五文字は未来でいちばん強い技術になる
考えてみてほしい。相手が見えないほど巨大になったとき、その全体を一瞬で抱きしめられる言葉を、僕らはもう持っている。「いただきます」だ。何百もの手を、何千キロの旅を、人と機械の協働を、たった五文字で丸ごと受け止める。これほど圧縮率の高い感謝の技術は、世界中どこを探しても、そうそう見つからない。
技術が進むほど、僕らを支える仕組みは目に見えなくなっていく。けれど、見えないものを想像し、そこに向かって頭を下げる力は、人間がまだ手放していない特別な才能だ。AIが畑を耕し、ロボットが食卓を整える未来でも、「この一皿の向こうに、いったいどれだけの働きがあったのだろう」と立ち止まれる人は、きっと誰よりも豊かに生きていける。感謝とは、世界の大きさに気づく力の、別の名前なのだから。見えないものへ頭を下げられる人は、見えない未来も、きっと信じられる。
いつか、料理が完全に自動で生まれる日が来ても——いや、そんな日が来るからこそ、僕はまたひとりの台所で、小さな三角形に向かって頭を下げるだろう。返事はない。でも、その沈黙の先には、想像を超えた数の命と、知恵と、名も知らぬ誰かのやさしさが、静かに連なっている。見えない手の、そのすべてへ。今日も僕は、ありったけの気持ちを五文字に込めて言う。いただきます、と。
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