■ 「ギガ」という、人類史上いちばん奇妙なものさし
月末が近づくと、僕らはスマホを握りしめて小さく祈る。「ギガ、もつかな」。写真を撮ると減り、動画を観ると減り、気づけば速度制限という名の兵糧攻めにあう。現代人はみんな、目に見えない”情報の残量”を、お米の残りみたいに気にしながら生きている。
でも、ここでいちど立ち止まってほしい。これは、よく考えるととんでもなく奇妙なことなのだ。
あなたが昨日撮った猫の写真と、十年前にもらった恋文と、好きな曲のサビと、確定申告の書類。手ざわりも、匂いも、重さも、泣けるかどうかも、まるでちがう。それなのに、僕らはそのすべてを「何メガバイト」という、たった一本の同じものさしで量ってしまう。恋文と猫と税金が、同じ単位で、仲良く横一列に並ぶ。こんな乱暴で、こんな便利な”ものさし”を、人類は昔から持っていたわけではない。
考えてみれば、長さには「メートル」が、重さには「グラム」がある。でも、ほんの八十年前まで、「情報」を量る単位は、この世界のどこにも存在しなかった。手紙が”厚い””薄い”とは言えても、「この手紙には何単位ぶんの情報が入っている」とは、誰も言えなかったのだ。情報というものに重さをつけ、つかみどころのなかったそれを数えられるものに変えた人物が、ちゃんといる。名前をクロード・シャノンという。
■ 1948年、一人の男が「情報」に目盛りをつけた
シャノンは、アメリカのベル研究所にいた数学者だ。1948年、彼が発表したたった一本の論文が、僕らの世界を静かにひっくり返した。タイトルは「通信の数学的理論」。地味だが、これが後に”情報理論”と呼ばれる学問の、そして今あなたが使っているあらゆるデジタル機器の、生まれた瞬間だった。
彼の発明した単位が「ビット」だ(名付け親は同僚のジョン・テューキーだが、世に広めたのはシャノンだった)。1ビットとは、ものすごく雑に言えば「はい/いいえ」一回ぶんの情報のこと。
たとえば「今日の天気は?」。砂漠の国で「晴れ」と聞いても、ほとんど情報がない。毎日晴れているのだから、当たり前すぎて驚きがない。でも同じ砂漠で「雪」と聞いたら、これは大事件だ。情報がぎっしり詰まっている。シャノンはこの”驚きの大きさ”こそが情報の量だ、と見抜いた。ありえないことほど、情報は重い。
子どもの頃にやった「二十の質問」ゲームを思い出してほしい。相手が思い浮かべた答えを、はい/いいえの質問だけで当てる遊びだ。「それは生き物?」「食べられる?」——うまく質問すれば、意外と少ない回数でたどり着ける。何回の質問で当てられるか、その最小回数こそが、答えに含まれる情報の量なのだ。驚きの少ないもの(晴ればかりの空)は少ない質問で、驚きの多いもの(何が出るかわからないクジ)は多くの質問で言い当てられる。
シャノンは、世界中のありとあらゆる”伝えたいこと”を、この「はい/いいえ何回ぶんか」という、ただひとつの共通の物差しに乗せてしまった。言葉も、絵も、音も、すべて0と1の列——つまりビットの連なりに翻訳できる。恋文も猫も税金も、こうしてはじめて同じ重さで量れるようになった。今あなたのスマホの中で写真も音楽もメッセージも同じように扱えるのは、元をたどればこの一手のおかげなのだ。
■ 今日のAIは、シャノンが遺した”予想ゲーム”の子孫だ
ここからが面白い。シャノンは1951年、こんな実験をしている。英語の文章を一文字ずつ隠して、人に「次の文字は何だと思う?」と当てさせたのだ。「t-h-e-r……」ときたら、次はeだろう、と僕らは無意識に予想できる。よく当たるということは、その言語にはムダ(予想できる部分)が多い、ということ。シャノンは”言葉の予想しやすさ”までも測ってみせた。
この「次の一文字を予想する」遊びが、何かに似ていないだろうか。そう、今をときめくAI——ChatGPTのような大規模言語モデルがやっていることは、煎じ詰めれば「次に来る言葉を予想する」ことなのだ。膨大な文章を読み込み、「この流れなら、次はこの言葉が来るはずだ」と確率で当てていく。七十年以上前のシャノンの手遊びが、現代のAIのいちばん奥にある心臓と、まっすぐ地続きになっている。
“予想できる=ムダがある=削れる”という発想は、別の場所でも毎日活躍している。写真を送るときのzip圧縮も、音楽や動画のストリーミングも、「どうせ予想できる部分は省いてしまおう」というシャノン直系のアイデアだ。繰り返しの多い空の青を、いちいち全部送らずに「ここからここまで同じ青」と伝えれば、ぐっと軽くなる。情報を数え、予想し、ムダを削って圧縮する——AIという巨大な建物も、動画配信も、僕らの”ギガ”のやりくりも、ぜんぶシャノンが一人で引いた設計図の上に建っている。
もちろん、影もある。何もかもがビットに換算され、顔も声も気持ちまでデータになっていく時代に、「人間が、ただの数字の束になってしまうのでは」という不安は、たしかにある。それは正直な怖さだ。
■ 「意味」を捨てたからこそ、「意味」は僕らのものになる
けれど、シャノンはあの歴史的な論文の冒頭で、はっきりとこう宣言していた。「情報の”意味”は、工学の問題とは無関係である」。彼が数えたのは情報の”量”だけ。そこに込められた意味——嬉しいのか、悲しいのか、愛なのか——には、あえて一切手をつけなかった。
これは冷たい割り切りに見えて、じつは最高の贈り物だ。パイプは水の味を知らないからこそ、あらゆる味の水を運べる。機械は意味を数えないからこそ、意味そのものは、まるごと僕ら人間の手に残される。AIがビットの計算を引き受けてくれるほど、「で、それにどんな意味を込めるか」という、いちばん人間らしい仕事が、僕らの前にくっきり姿を現す。
シャノンという人は、ベル研究所の廊下を一輪車に乗り、ジャグリングをしながら移動したという。彼はまた「テセウス」という機械のネズミを作った。迷路に放つと、試行錯誤しながらゴールまでの道を”覚える”——世界で最初期の、学習する機械のひとつだ。情報に目盛りをつけた人は、同時に、遊ぶように学ぶ小さなネズミも生み出していた。
機械が黙々と数を数え、人間は意味を遊ぶ。それは何かを奪われる未来じゃない。シャノンの一輪車が、いよいよ僕ら全員に配られる未来だ。次に「ギガが減った」とぼやくとき、少しだけ思い出してほしい。あなたは今、七十年前の天才が引いた一本の物差しの上で、自分だけの意味を、せっせと運んでいるのだ。
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