深夜のスーパーで、レジの人が「7掛ける8は?」と急に問われることはない。それでも僕らは、頭のどこかに小さな呪文をしまっている。「しちはごじゅうろく」。理由は言えない。でも、口が勝手に答える。まるで、押すと決まった音が鳴るボタンのように。
考えてみると、これはなかなか奇妙な光景だ。僕らは人生でいちばん最初に、「意味はわからないけれど、正しく言えれば褒められるもの」を暗記させられる。しかもそれを、なぜか“歌”のように節をつけて。九九を思い出すとき、多くの人はメロディごと思い出すはずだ。中身より先に、リズムが返ってくる。「ろくしちしじゅうに」の“しじゅうに”だけが、妙に伸びる。あの伸び方まで、僕らは覚えている。
現代社会には、こういう「わけもわからず口が動く」がたくさんある。会議での「では、いったん持ち帰ります」。メールの「お世話になっております」。年賀状の「旧年中は大変お世話になりました」。どれも、意味を確かめる前に指と口が先に動く定型句だ。九九は、その記念すべき第一号なのかもしれない。人類が生まれて最初に覚える、意味を問わないパスワード。
■ 「九九」は、なぜ“1×1”から始まらないのか
ここでひとつ、静かに常識が揺れる話をしたい。あの表は、なぜ「九九(くく)」と呼ばれるのだろう。九の段が一番むずかしいから?——実は、逆なのだ。
もともと九九は、古代中国で生まれた。紀元前の文献にもその名が出てくるほど古い。そして当時は「九九 八十一(くく はちじゅういち)」、つまり9×9=81から唱え始めていた。表の最後ではなく、いちばん大きいところが出発点だったのだ。だから、その最初の四文字をとって「九九」と呼ばれるようになった。僕らが「あいうえお表」を「あいうえお」と呼ぶのと同じ、ただの“歌い出し”の名前だったわけである。1×1から素直に始まる今の並びは、ずっと後になって庶民に広まる過程で、やさしい方から入れるように“ひっくり返された”順番にすぎない。
日本でも、九九の歴史はおそろしく古い。奈良時代の役所跡からは、九九を書きつけた木簡——文字を記した木の札——が何枚も出土している。千三百年前の役人が、税の徴収や米の量を計算するために、僕らとほとんど同じ表を暗記していた。紙が貴重だった時代、彼らは木を削っては数を書き、削っては書き直した。そしてきっと、節をつけて唱えていたのだと思う。人間は、覚えておきたいものを歌にしたくなる生き物なのだ。円周率を語呂で覚えるのも、歴史の年号を「いい国つくろう」と唱えるのも、根っこは同じ衝動である。
■ 「答えを言える」ことと、「わかっている」こと
さて、ここからが少し痛いところだ。7×8=56と即答できる僕らの多くは、では「なぜ56になるのか」を、その場できちんと説明できるだろうか。
もちろん、8を7回足せばいい。でも九九を唱えているとき、頭の中で足し算をしている人はいない。僕らは“計算”しているのではなく、“検索”している。暗記した答えの引き出しを、パッと開けているだけだ。これ自体は、まったく悪いことではない。むしろ人類の見事な発明で、脳の負担を大幅に減らし、より複雑な思考のために手を空けてくれる。掛け算のたびにいちいち足し算へ戻っていたら、僕らはいつまでたっても、その先の割り算にも方程式にもたどり着けない。
ただ、ここに小さな落とし穴がある。「なめらかに言えること」を、「深くわかっていること」だと、つい勘違いしてしまうのだ。呪文がスラスラ出てくるほど、その下に眠っている「なぜ」を、わざわざ覗きに行かなくなる。学校の勉強がときどき退屈に感じられるのは、たぶん、答えの言い方ばかりを磨かされて、意味に出会う時間が後回しにされてしまうからだ。
■ AIが“答え”を全部くれる時代に
そして今、電卓どころか、AIが世界中のあらゆる「九九」を一瞬で返してくれる時代になった。7京8千兆どうしの掛け算だって、まばたきひとつためらわない。
だからこう不安になる人がいる。「答えを機械が出してくれるなら、もう自分で覚える意味はないのでは?」と。暗算ドリルは無駄になり、そのうち教室から計算そのものが消えていくのでは、と。もっともな心配だ。実際、そろばんや暗算の名人芸は、電卓の登場でずいぶん肩身が狭くなった。同じことが、また起きるのではないか、と。
けれど、僕はむしろ逆だと思っている。答えを出す重労働をAIが引き受けてくれるということは、人間がやっと「なぜ」の側に、丸ごと立てるようになる、ということだ。これまで僕らは、答えを速く正確に出すことに、時間とエネルギーの大半を使ってきた。木簡を削った奈良の役人から、今朝ドリルを解いた小学生まで、千三百年ずっと。その途方もない重労働をそっと手放せたら、あとに残るのは「そもそも、なぜ掛け算という発想が生まれたのか」「どうして順番を入れ替えても答えは変わらないのか」「掛け算は、足し算の“近道”としてどんな景色を見せてくれるのか」という、いちばん面白い問いのほうなのだ。そろばんの名人が電卓に仕事を譲ったあとも、数を愛する気持ちまでは失わなかったように。
もちろん、影もある。答えをすぐもらえる環境では、「なぜ」を考える筋肉は、放っておけば静かに衰えていく。呪文だけがきれいに残って、意味がすっかり空っぽになる——そんな未来だって、ありえなくはない。
■ それでも、九九を歌う意味は消えない
でも僕は、そう暗くは見ていない。
九九を歌で覚えたあの経験は、たぶん、答えを出すためだけのものではなかった。あれは、人類が何千年もかけて積み上げてきた知恵を、意味より先に、自分の体にリズムごと引き受ける小さな儀式だったのだと思う。意味は、後からついてくればいい。まず口ずさめるようになった祖先の知恵が、ある日ふと「あ、そういうことか」と腹に落ちる——その“あとからやって来る理解”のために、僕らは先に呪文を預かっているのだ。
AIは、答えを気持ちよく肩代わりしてくれる。でも、「わかった!」というあの瞬間の、静かな高揚だけは、誰かが代わってあげることはできない。あれは、覚えて、考えて、つまずいた本人のところにしか訪れない。だとすれば、これからの学びは、答え合わせから「意味と出会う時間」へと、ゆっくり重心を移していくだけのことだ。千三百年前の役人が唱えたのと同じ呪文を、僕らの子どもたちは、もっと自由に、もっと面白がって歌えるようになるはずだ。
「くくはちじゅういち」。この不思議な呪文は、今日も日本のどこかで誰かの口から生まれ、いつか意味に追いつかれる日を、静かに待っている。未来は、答えを覚える場所から、意味を味わう場所へ。なかなか悪くない引っ越しだと、僕は思う。
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