「片側空け」という、誰も頼んでいないのに全員が守る『透明な法律』——正しかったのは、ずっと『立ち止まっていた人』のほうだった話

朝の駅で、僕はいつも小さな儀式に参加している。エスカレーターに乗るとき、何も考えず左側にすっと寄る。右側は、まるで救急車のために空けられた道路のように、きれいに空いている。そこを駆け上がっていく「急ぐ人」のために。

でも、よく考えるとこれは奇妙な光景だ。誰も「右を空けろ」と命令していない。法律にも書いていない。駅員がマイクで叫んでいるわけでもない。それなのに、東京の何百万人もの通勤客が、まるで生まれる前から知っていたかのように、寸分の狂いもなく右を空ける。命令する王様がどこにもいないのに、全員が完璧に従う法律。世界でいちばん静かに施行されている「透明な法律」だ。

そして、もっと奇妙なことがある。この、みんなが律儀に守っているルールは、実は「間違っている」のだ。

■ 誰が「右を空けろ」と決めたのか

まず、この儀式には方言がある。東京では左に立ち、右を空ける。ところが大阪へ行くと、逆に右に立ち、左を空ける。国境をまたぐわけでもなく、たった数百キロで作法がひっくり返る。もし本当に「正しい乗り方」がこの世に一つだけあるのなら、こんなにきれいにバラつくはずがない。

そもそもエスカレーターは、19世紀の終わりにアメリカで生まれた。「エスカレーター」という言葉自体、もとは商品名だったという説がある。ラテン語の「階段(スカラ)」と「エレベーター」を掛け合わせた造語だ。1900年のパリ万博では、動く階段そのものが花形の見世物になった。乗ること自体が娯楽で、「その上をわざわざ歩いて上る」なんて発想は、はじめは誰の頭にもなかったのだ。

片側を空ける習慣が広まったのは、鉄道が混み合った20世紀の都市になってからだ。「急ぐ人を先に通してあげよう」という、ごく自然なやさしさから、それは静かに生まれた。つまり片側空けは、法律でも科学でもなく、「みんなの善意」が長い時間をかけて固まってできた化石のようなものだ。善意でできているから、誰も疑わない。疑わないまま、僕らは毎朝それを拝んでいる。

■ ロンドンの駅で行われた、少し意地悪な実験

2016年、ロンドン地下鉄のホルボーン駅で、運営側がちょっと意地の悪い実験をした。深くて長いエスカレーターで、「歩かないでください。両側に立ち止まってください」と、あえて逆のお願いをしてみたのだ。

案内された乗客の何割かは、正直むっとしたらしい。「なぜ歩かせてくれないんだ」と。ところが結果は、その怒りごと直感を裏切った。両側にぎっしり人が立ったほうが、エスカレーター全体で運べる人数が増えたのである。報告によれば、その差はおよそ3割。混雑した時間帯ほど、効果は大きかった。

理由は、小学校の算数で説明できる。片側を空けると、ステップの半分が「歩く人専用レーン」になる。ところが実際に歩いて上る人は、じっと立ち止まる人ほど多くない。すると空けたレーンはずっとスカスカのまま流れ、立つ側にだけ長い行列ができていく。座席の半分を空席にしたまま走る満員電車——それが、片側空けの正体だった。急ぐ人のためのやさしさが、まわりまわって全員をよけいに待たせていたのだ。ハッとする話だが、僕らはよかれと思って、毎朝せっせと渋滞を作っていたことになる。

しかも、話は速さだけではない。歩く人と立つ人が入り混じるエスカレーターは、転倒やぶつかりの事故が起きやすい。手すりに手が届かないまま駆け上がって、将棋倒しのように巻き込む——そんな危険が、片側空けの裏側にはずっと隠れていた。近年、日本でもいくつかの自治体が「エスカレーターでは立ち止まりましょう」と呼びかける条例をつくり始めたのは、この長年の常識に、そっと待ったをかける試みだ。百年ぶりに、僕らは「動く階段の乗り方」を考え直そうとしている。

■ 「効率」と「やさしさ」は、本当に敵同士なのか

ここでAIの出番だ。いま世界中の駅や空港では、人の流れをまるで水や砂粒のように計算するシミュレーションが使われ始めている。一人ひとりを小さな粒に見立て、何千人分もの動きを仮想空間の中で先に走らせる。そうやって「どこで詰まるか」「どう案内すれば全員が早く着くか」を、実際に人を並ばせるより前に、机の上で予測してしまうのだ。同じ技術は、何百万人が集まる巡礼や、試合終了後にどっと人が動く巨大スタジアムの安全設計にも使われ始めている。

面白いのは、AIが弾き出す答えが、しばしば僕らの「常識」と正面からぶつかることだ。片側を空けないほうが速い。急がないほうが、結局はみんなが早く着く。人間の直感が善意でこしらえたルールを、機械は淡々と「それは非効率です」と指摘してくる。渋滞の名所でわざと車を先に行かせない信号や、あえて遠回りに見える避難経路が、全体ではいちばん人を救う——似たような「直感と逆の正解」は、実は僕らの身のまわりのあちこちに潜んでいる。

もちろん影もある。何もかもを効率だけで最適化していくと、「お先にどうぞ」と一歩よける、あの小さな譲り合いの余白まで消えてしまうのではないか、という心配だ。数字だけがすべての正解になった世界は、たしかに少し息苦しい。

■ 未来は、急ぐ人も待つ人も、そのままでいい

でも僕は、そこにこそ希望があると思っている。

これまで僕らは、限られた場所を奪い合わないために、「片側を空ける」という窮屈なルールを自分たち自身に課してきた。お互いをそっと監視し、はみ出す人に無言の圧をかけながら。それは言いかえれば、混雑という問題を「人間の我慢」だけで解いていた時代だった。

AIが人の流れを本当に理解する未来では、その我慢を、機械のほうがそっと肩代わりしてくれる。エスカレーターは混雑を感じ取って速さを変え、駅は人の波をなめらかにほどいていく。僕らはもう、隣の人が「正しい側」に立っているかどうかを、いちいち気にしなくていい。急ぎたい日は堂々と歩き、疲れた日はぼんやり立ち止まる。その両方が、もう誰のことも困らせない。

効率とやさしさは、きっと敵同士ではないのだ。むしろ、本物の効率とは「みんなが我慢しなくていい状態」のことなのだと思う。テクノロジーが賢くなればなるほど、僕らは他人にルールを強いる必要から少しずつ解放されて、もっと自由に、もっと機嫌よく、朝の駅に立てるようになる。

だから明日の朝、エスカレーターの右側が少しくらい埋まっていても、どうか慌てないでほしい。それはたぶん、僕らがようやく、善意でこしらえた古い法律からそっと降り始めた、静かなサインなのだから。

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