毎年、その季節がやってくると、日本中の机の上に奇妙な祭壇が築かれる。輪ゴムでとめたレシートの束、封筒に押し込まれた領収書、去年の自分が何にお金を使ったのかをめぐる、静かな考古学。僕らはそれを「確定申告」と呼び、あたかも神聖な儀式のように、期限の前夜に眉間へシワを寄せる。
冷静に考えると、これはずいぶん不思議な光景だ。国家はすでに、僕の給料も、銀行の残高も、たいていのことを知っている。それなのに僕らは、わざわざ紙に数字を書き写し、「私はこれだけ稼ぎ、これだけ使いました」と自ら申告する。まるで、すべてを見透かしている相手に向かって、あらためて自分の一年を告白しているかのように。答えを知っている先生に、それでも自分で答案を書かされる――そんな居心地の悪さが、あの季節にはある。税金とは、もしかすると人類最古の「告解」なのかもしれない。
■ 人類が最初に書いた文章は、詩ではなく「レシート」だった
ここで、ちょっと足元がぐらつく話をしよう。文字は、何のために生まれたと思うだろうか。神への祈り? 愛の詩? 英雄の物語? どれも、外れだ。
いまから五千年以上前、メソポタミアの都市で、人類が最初に本格的な文字――楔形文字――を刻んだ理由は、驚くほど散文的だった。「麦を何袋、誰が納めたか」を記録するため。つまり、税と在庫の帳簿である。それ以前の人々は、粘土でできた小さなトークン(おはじきのような形の代用貨幣)を壺に入れて数を管理していた。やがて「壺を割らずに中身を知りたい」という横着な願いから、トークンの形を粘土板の表面に押しつけて記す方法が生まれ、それが記号へ、文字へと育っていった。
もっと可笑しい話がある。歴史上、名前が判明している「最古の個人」が誰か、ご存じだろうか。王でも、預言者でも、詩人でもない。「クシム」という名の、おそらく一介の会計係だ。五千年以上前のウルクの粘土板に、大麦の取引記録とともに、その名は残されている。人類が最初に名前を書き記して不朽にした相手は、英雄ではなく、帳簿をつけていた事務員だったのである。
考えてみてほしい。シェイクスピアも、源氏物語も、いま読んでいるこの文章も、その源流をたどれば、一枚の「税の受領書」にたどり着く。人類の壮大な文明は、要するに「ちゃんと払ったか?」を確かめたい、その几帳面な気持ちから始まったのだ。ハッとするが、なんだか少しおかしい。神殿の荘厳さよりも先に、僕らは「貸し借りをきちんとする」ことを、石に刻むほど大切にした生き物なのだ。
■ 五千年たっても、僕らはまだ「割り勘の計算」をしている
ここで現代に話を戻そう。あの粘土板から五千年。人類は月に人を送り、ポケットにスーパーコンピュータを入れて歩いている。それなのに、税との付き合い方の本質は、驚くほど変わっていない。相変わらず僕らは、数字を「集め」「書き写し」「申告する」。道具が粘土板からスマホのアプリになっただけで、やっていることは古代の書記官とほとんど同じなのだ。
だが、その最後の氷が、いま溶けはじめている。AIが変えるのは、税率の高い低いではない。「申告する」という行為そのものだ。すでに一部の国では、AIが個人の収入や控除を自動で計算し、「あなたの今年の申告はこれで完了です、確認して押すだけです」という状態を差し出しはじめている。エストニアのように、税の手続きが数分で終わる社会も現実に存在する。レシートの束と格闘する冬の夜は、やがて「そういえば昔はね」と語られる思い出になるだろう。
この変化を、身近な例で考えてみよう。かつて僕らは、旅行のたびに分厚い時刻表をめくり、乗り換えを鉛筆で計算していた。いまは、行き先を告げれば経路がひとりでに現れる。あの「調べる労働」が消えたことを、誰も惜しんではいない。税もまた、同じ道をたどろうとしている。「申告する労働」が消え、僕らは結果を確かめるだけの側にまわる。
もっと面白いのはその先だ。AIが行政の複雑さを引き受けてくれると、税は「取られるもの」から「対話できるもの」へと姿を変える余地が出てくる。自分の払った一万円が、どの道路の舗装に、どの学校の給食に、顔も知らない誰かの明日に流れていったのか。これまで巨大すぎて見えなかったその水脈を、AIが一人ひとりにわかる言葉で描き出してくれる。税が「消えていくお金」ではなく「自分も出資している社会という共同事業」に見えはじめる未来は、もう、そう遠くない。
■ もちろん、影はある。でも行き先ではない
正直に言えば、不安もある。国家が僕らのすべてを把握し、AIが自動で計算する世界は、裏を返せば「逃げ場のない監視」にもなりうる。透明性は、向ける先を間違えれば、ただの一方的な覗き見に変わる。この影から目をそらすつもりはない。
けれど、それは行き先ではなく、僕らが賢く避けて通るべき道端の穴だ。歴史を思い出そう。文字が税のために生まれたとしても、人類はその文字で、やがて憲法を書き、詩を書き、権利を宣言した。帳簿を生んだ道具は、いつしか自由を守る道具にもなった。道具は、それを使う僕らの意志より先には進まない。だからこそ、AIに何を計算させ、その透明さを誰のために使うのか――その設計図を僕ら自身が書き続けるかぎり、監視ではなく対話のほうへ、舵は切れる。決めるのは、いつだって技術ではなく、僕らのほうなのだ。
■ 五千年目の、あたたかい申告書
だから僕は、あの粘土板のことを、少し愛おしく思うようになった。あれは、見知らぬ者どうしが「一緒に社会を営もう」と約束した、最初の証文だったのだから。税とは本来、孤独な告解ではなく、僕らが同じ屋根の下にいることの、ちょっと不器用な確認作業だったのかもしれない。
シンギュラリティは、その不器用さを、そっとほどいてくれる。数字を書き写す労働からも、期限前夜の憂鬱からも、僕らはもうすぐ解放される。そして空いた手で、本当にすべきこと――この社会を、どんな明日に向けて設計したいのかを、隣の誰かと語り合うこと――に、ようやく戻れるのだ。会計の作業を機械に手渡したとき、はじめて僕らは、数字の向こうにいる「人」のほうを見つめられるようになる。
来年の冬、レシートの束の代わりに、僕はきっと、少しだけ晴れやかな気持ちで一年を振り返っている。五千年前の書記官が、もし今の僕らを見たら、なんと言うだろう。「ようやく、割り勘の計算から卒業できたんだね」――そう笑ってくれる気がして、なんだか、悪くない。
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